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好きって意外と難しい。ほんまに僕はこれのこと好きなんか。

由々しき事態である。

自分が「好きだ」と思っていたものや、「やりたい」と思っていたものが、実はそこまで情熱を燃やせるものではなかったと気がついてしまったら……。己のアイデンティティは大きく揺らいでしまうだろう。それはとても恐ろしいことだ。

「好き」は理想の自分に近づくことと同義に近い。人はかくして自分を騙してしまう。だから実はあまりきちんと好きの正体を見ていなかったりするし、自分がそれを好きだと思い込む。そして理想へ近づくほどの情熱も信念も持ち得ない我々は段々と辛くなっていくのだ。これは僕自身、もちろん経験があるし、今も見なかったことにしている「本当に好きかわからない、パンドラのハコ」が心の片隅にあることを自覚している。

では我々はこのパンドラのハコに、どのように向き合えばいいんだろうか?きっと方法はいくつかある。

ひとつめはわかりやすく「捨てること」だ。諦めると言い換えてもいい。捨ててしまえば視界に入ることもないので、思い出したり向き合う必要がない。たまに思い出して胸がイタくなるか、時間が経てば完全に忘れることができるだろう。

ふたつめは好きにとことん向き合うこと。この向き合うという行為は疑うに近いのではないかと最近思う。「僕はこれが好きなのか?」「好きだとすればどこが好きなんだ?」「どうして好きなんだろう?」などと自分の好きを疑ってかかる。そうするとボンヤリとしていた好きの正体がディティールを帯びていく。そうしてよく見た好きは、100%肯定できるものではない可能性もある。よくよく見ればどんなものにでもシミのひとつはあるからだ。だが理解したうえで、それを含めて好きだと言えるのは、ハコに閉まったまま好きだと言うのとは随分と強度が違うはず。ここまで突き詰められるともちろん最高なのだけど、正直しんどいのも事実だ。

そこでみっつめだ。とことん向き合えない「好き」が合ってもよいと認める。その基準をつくる。自分はなにをクリアできれば承認欲求が満たされるか、理解しておくだけで随分と楽になれるものだ。そしてそのハードルは気持ち低めにすることと、自分でジャッジできるものにすること、複数の評価基準をつくることがポイントである。

どうせ己の評価と他者の評価など釣り合わない。Instagramで自分が良いと思った写真がさほどイイねが伸びず、そこまでだと感じたものにやたらイイねが付いた経験があなたにもあるのではないだろうか。他人のことなど気にするだけ無駄である。自分で評価してやる方がよっぽど健全だ。

と、ここまで整理がてらツラツラと書いてはみたがそれが簡単にできれば正直苦労はしないところ。こんなことを書いている時点で、おそらく僕自身が好きのギャップに苦しんでいるからではないかと思う。できることなら多くの評価軸を持ち、ひとつの価値観に振り回されず、シミまで愛して生きたいものだ。

編集長:堤



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アンテナ

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