「比較社会漂流記」~最期まで話を聞くということ・終わりのあいさつ~
2019年1月26日に、京都で開催されたシンポジウム「比較社会漂流記~比べられたくない、でも比べないと不安~」の文字起こしを編集し、ダイジェスト記事としてお届けします。
このシンポジウムは、NPO法人京都自死・自殺相談センターSottoが、比較してされて生きることの苦しさや、そこから生じる死にたい気持ちについて考えを深めることを目的として開催しました。
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野呂: ちょっと今Twitterで、松本先生と竹本さんのように相談を受けている方に対してですけども、「自分の患者さんや、相談をしてきた方が自死されることに恐怖はありますか。また、そうやって自死で亡くなった方を責めますか」、という質問がありました。
松本: じゃあ僕からいきますけど、これまで医者やってきて何人かの患者さんに亡くなられていて、責めるっていうことは全然ないんだけど、すごいショックを受けるのは事実です。
精神科って、外科・内科に比べれば、患者さんが亡くなるっていうことはそんなに多い数ではないんです。でも、やっぱり自殺で亡くなられるのは、それと同じような病死に近いものがあって、非常に自分を責めるっていうことはありますね。
小林: でも、多分自死した患者さんは、先生のことは全く責めてないと思います。私は、自分で自分の命を絶とうとするときは誰のことも責めてないですし、やっぱり自分が至らなかったからだと考えるし、だから患者さんが自死されることはとてもつらいことですけど、患者さんは先生を責めて亡くなっていないと思うので、そこは安心していいと思います。
竹本: 相手が亡くなってしまうことが怖いかどうかっていうことに関しては、亡くなること自体が怖いとか、そういうことはあまり思ってないんですけど、自分が関わったことによって、相手の人が傷ついたり、より苦しくなっちゃったりしてしまったのかなっていうふうに思うと、すごく引きずりますね。
うまく関われなかったというよりは、せっかく相手が勇気を持って心を開いてくれたのに、それをちゃんと本当に受け取ることができなかったときはすごく後悔をするし、正直そういうふうになるのは嫌だし、心に残りますね。
もう一つ、亡くなった方を責めるかっていうと、それは全くないですね。責めるも何も、そもそも人の生き死にを自分がジャッジするような立場にもちろんないし、悲しいなとか、本当に最後までよく生きたなって思うとか、そういう感想はありますけど、責めるとかは全然ないですね。
Sottoで昔、電話相談を受けて記憶に残ってるもので、電話口で今から死にますってことをおっしゃった電話がありました。その方は、最初かけられたときは、本当にめちゃくちゃ暗い声で、もう消え入るような声で死のうと思ってるっていう話をされました。
少しお話しをしてると、もう本当に生活環境を聞いても仕事のことを聞いても、体調を聞いても、もうにっちもさっちもいかない状態なんですね。そのあと、もう少し具体的にその人の半生をいろいろお話をしていただいて、一通り聞いたあとに、もう一回、最後におっしゃったんです、「ありがとう」と。そして「今からやっぱり死のうと思う」っていうふうにおっしゃったんですね。
それを聞いて僕自身は、何とも言えないんですけど、最後の決意を言ってくれたっていうことは別に嫌なことではなくって、「もうその決断で変わらないんですね」と言うと、「そうなんだ」と。「でも最後にそのことまで含めて話をできたっていうことは、自分にとってはすごく意味があることだったんだ、ありがとう」というふうにおっしゃって電話を切られたことがありました。
自ら命を絶つっていうと、みんながみんな絶望的で、最後に何もなくなって自ら命を絶つんだ、っていうふうに僕らはイメージしがちなんですけれども、必ずしもそういう自死ばっかりじゃない。できればもっと生きていきたいとか、環境が本当に全部変えられてやり直せるなら、もっと生きてたいっていう思いはあるかもしれませんけれど、本当に自分の中ではベストを尽くして、そのうえで命を終えるっていうことが、自分の中では精いっぱいの決断だったんだと。
それをちゃんと横にいて一緒に味わったっていうのは、僕の中ですごく今でも残ってる大きな経験で、それは全然嫌なことじゃなくて、そこまでのことを共有できたというか、一緒にそこにいれたっていうのは、すごく変な言い方ですけど、ぬくもりが残る関わりだったなというふうに思っています。
野呂: 印象的ですね。死にたいという気持ちを受け止めるということ、それは本当に最後まで、その方が死を選ぶというところまで受け止めていくということになるんですかね。
今回のシンポジウムのタイトル「比較社会漂流記~比較されたくない、でも比較しないと不安~」、まさにそこには、さまざまな生を私たちは生きていくうえでの、色んな問題がそこに含まれていたのかなというふうに思っています。
最後に、もうたくさんしゃべっていただきましたが、最後に皆さん一言ずつだけいただきまして締めにしたいというふうに思っております。それでは、小林さんからお願いいたします。
小林: 今日はお越しいただいて、どうもありがとうございました。私、関東に住んでいるので、京都になかなか来ることがなくて。でも、こうして皆さんの顔を見ることができて、本当に長い間、時間を一緒に過ごすことができて、とても嬉しく思います。作家としての立場も、今後とも応援していただいたらと思います。
松本: 今日は雪が降るようなあいにくの天候の中、これだけの方に集まっていただいて、本当に嬉しく思っています。本当に頭の体操というか、次から次へと突きつけられる難問を、僕も頭を抱えながら、どうにかこうにかしながらも結構良い時間を過ごせたなというふうに思っています。
竹本: 僕もいろんなシンポジウムとか講演会ありましたけど、今回途中で中座してトイレ行ったのは初めての経験です(笑)。(実はシンポジウム中トイレに立っていた竹本)
そういうゆるい空間を、皆さん、本当ぬくもりある雰囲気を作っていただき、ありがとうございます。
こんな感じで、お互いに慈しみを持ったり、愛おしいなと思って関わったりすると、そういうふうな空間になると思うんですね。それが逆に、こいつ何だよとか、何々すべきなんだ、みたいな関係でお互いを見ると、やっぱぎすぎすするし比較することこそが絶対な価値だっていうふうになっちゃうんですよね。
なので、なるべくお互い温かなまなざしでいて、この人にもいろんな人生、いろんなことあるんだよなと思って、お互いのことを本当にゆるく関わることができると、少しは孤独が減るかなと思ってますので、Sottoも温かく皆さん見守っていただければと思います。今日はありがとうございました。
野呂: それでは、これをもちまして、このパネルディスカッションを閉じさせていただきます。最後にもう一度3名のパネリストの方々と、そして、この会場の皆様ご自身に向けて、最後の拍手をもって閉会となります。どうもありがとうございました。
(了)
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(記事編集担当より)
最期までお読みいただき、ありがとうございました。楽しんでいただけたでしょうか。
とにかく色々な話題が出たシンポジウムで、盛りだくさんな内容となりました。
来年度もシンポジウムを開催予定ですので、よろしければご参加ください。(詳細は後日発表)
「比較社会漂流記」のまとめは今回で終了ですが、今後もnote上で発信を続けていきますので、ぜひフォローしていただければと思います。
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