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ゼロトレ

排除の論理


 中卒、そして暴走族の総長、高卒認定試験を経て有名大学に入学した大学生の話を聞きました。

 非行の始まりは部活での挫折。全国レベルの強豪中学に入ったことから、ついていけずサボるように。ヒマな悪友と深夜徘徊など、最初は小さな非行からエスカレート。だんだん気が大きくなり、大人が怖くなくなっていった。金髪短ランで学校へ行っては排除される毎日。中学卒業後、逮捕され鑑別所に入っても、出所するためだけの反省したフリ。

 「甘ったれてんじゃねー!」と彼のことを切り捨てるのは簡単です。しかしそうやって切り捨てた結果、学校から1人問題児はいなくなったけれど、暴走族を1人増やしてしまった訳です。
 学校から排除された者は、排除された者同士でコミュニティを作ります。彼らは学校や大人たちに復讐します。もちろん道理は通っていませんが、理屈は関係ありません。彼らには不信感と憎しみしかないのです。

 大学生の彼は「居場所が欲しかった」「勉強は嫌だったけど、学校には行きたかった」と話していました。
 そういう子たちも本当は学校に行きたいし、認めてほしいんですよね。でも、うまく表現できないから問題行動を起こします。言葉で表現できない赤ちゃんが泣くのと同じです。泣いている赤ちゃんを厳しく叱りつけて泣き止むはずもありません。


ゼロトレランス方式(zero-tolerance policing)


 寛容度(tolerance)ゼロ。
 学校規律の違反行為に対するペナルティの適用を基準化し、これを厳格に適用することで学校規律の維持を図ろうとする考え方です。「毅然とした対応」なんて言われ方をします。ゼロトレランスを信奉する校長だったりすると、若手教員に怒鳴りつける指導を強要します。怒られるのが怖いから、生徒たちを怒鳴りつける。パワハラの連鎖です。当然、教師の生徒の信頼関係など生まれるワケもなく、学校は殺伐としてきます。

割れ窓理論
「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」

 割れ窓理論に依拠し、小さな乱れを放置すれば、やがて大きな乱れになってしまう。だから小さな乱れを徹底的に潰していく、というやり方です。頭髪や服装規定の軽微な違反も、強権的に取り締まります。


 2010年代にこれを積極的に取り入れたのが広島県です(現在は方針を変更し、模索が続いているようです)。県教委主導の下、『生徒指導規程』を作成し、「この問題行動にはこの罰則」という風に、生徒指導を完全マニュアル化したのです。
 恐怖と罰によって生徒を管理し、反抗すれば排除。例外は認めない。見せしめのように、警察を呼んで手錠をかけて連れて行かれた生徒もいるそうです。こうした指導の結果、学校は表面上落ち着きます。しかし件の彼のように、学校から排除され、暴走族に入る若者も生み出してしまいます。

 「ヒドイなぁ」と思いましたが、考えてみると自分も恐怖と罰で生徒を管理していたこともあります。「教師たるもの、そうあるべきだ」と思っていた節もあります。今にして思えば、その時は子どもとも保護者とも信頼関係が築けていなかったなぁ、と後悔ばかりが残ります。

 家庭環境も、考え方も、理解力も、身体能力も、発達の度合いも、先生との信頼関係も、一人一人すべて違うのに、一律に同じ基準で管理統制すれば、ひずみが出るのは当然です。人間だもの。

文科省はこう言っています。
「学校教育は、教職員と児童生徒との人格的なふれあいを通じて行われる」


文科省もたまにはいいことを言う。
その前に、教師の労働条件をどうにかしろと言いたいが、今回は言わない。

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