和泉のひとり言

「六道が、撃たれてけがをした。入院先は中央病院で…」
 電話の声が遠くに聞こえた。目の前が一瞬真っ暗になって、膝がカクカクと震えた。
 足利さんの言葉はまだ途中だったが、俺はもう走り出していた。
 菊…逝くな! お前まで俺をおいて逝ってしまったら、俺はもう生きていけない。心臓が破裂しそうに胸を叩きつけている。
 秋斗が死んで納骨が終わった雨の日、俺の背中をずっとさすってくれていた菊。氷雨が降る中、お前の手の温もりが俺を支えてくれたから、秋斗のあとを追わずにすんだ。
 病院に向かうタクシーの中で、ペンダントを落としてしまった日のことを、ありありと思い出した。
 あの日俺は、性懲(しょうこ)りもなく、秋斗を殺した犯人を探しに行き、何の成果もあげることができずに虚しく帰路についていた。
 朝から降っていた雪はもう止んでいたが、凍(い)てつくような寒さだった。家に着き、玄関の鍵を開けながら胸元に手をやった。いつものように秋斗の写真を入れたペンダントに触れるために。
 「ない!ペンダントがない!」
 俺はショックのあまりその場に立ち尽くした。
 バスの中でも一度触ったから、落としたのはバス停から家までのどこかだ。
 俺は道路を這いずり回るようにして探し始めた。
 一体どのくらい時間が経ったのか、気づくと菊が目の前に立っていた。
「和泉さん、何してるんですか」
「ペンダントを落としちまったんだ」
「え〜!大変じゃないですか。俺も一緒に探しますよ」
「いやいいよ。お前仕事帰りだろう?先に帰ってろ」
 しかしスーツにコート姿の菊は、俺の言葉に耳を貸さず、小さな懐中電灯をポケットから取り出して探し始めた。
 三十分、一時間。しかしペンダントは見つからない。
「もういいよ菊、これ見つからないよ」
 俺は言ったが、菊は諦めなかった。そしてとうとう溶け残った雪の中からペンダントを見つけたのだ。
 笑顔でペンダントを渡してくれた時の菊の顔を思い出す。
 喜ぶ俺を見て、俺よりもっと嬉しそうに笑った。
「和泉さん、薄着ですね。早く帰りましょう。風邪ひきますよ!」
 菊は俺の背中をさすりながら言った。
 そして家に着くと、急いで風呂に湯をはった。
「早く入ってください。カラスの行水はダメですからね。体が冷え切ってるからしっかり温まって」
 風呂から上がると、エプロン姿の菊がテーブルを指差し、
「食べてください。どうせ今日もろくに食べてないんでしょ」と軽くにらんだ。
 テーブルの上には肉じゃがと味噌汁が湯気を立てていた。
 俺が肉じゃがを一口食べて「うまい」とつぶやいたら、菊はまた嬉しそうに微笑んだ。
 慈愛あふれるあの笑顔をもう一度見ることができるなら、俺は何でもする。命も差し出す。
 頼む菊、俺をおいて逝くな。
 涙が止まらない俺を、運転手がバックミラーで見ながら「大丈夫ですか?」と訊いた。
 大丈夫なんかじゃない。俺は世界を失おうとしている。
 どうやって病院に駆け込んだのか覚えていない。何を叫んだのか、何をしたのかも覚えていない。
 気づけば俺は屋上にいて、暮れ惑う空を見上げている菊の後ろ姿を見つめていた。
 その時の気持ちを言葉で言い表すことはできない。
 菊が生きていてくれた。失いかけた世界を取り戻した心地だった。
どんなに菊が大切な存在か、菊が逝ってしまえば、俺の世界も終わるということをはっきりと知った瞬間だった。
 菊、生きていてくれてありがとう…。

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