菊之助のひとりごと

 おむすびごろりんをこの場所でやるのもあと数日。もうすぐ俺はこの町からいなくなる。和泉さんが生活するこの町。すれ違ったり、ちょっと顔を見に行ったりできるこの町…。
 物理的距離だけじゃなく、心も遠くに行く。いや、もともと俺は和泉さんの心の中にはちゃんと住まわせてもらってなかったんだ。仮住まいでしかなかった。
 秋斗がいなくなってから、ずっとそばにいたけど、物理的距離が近いだけで、和泉さんの心の中には秋斗しかいなかったんだ。
「おかかおむすび、ショートとトールください」
 二人のOLさんがいつもと同じものを買ってくれた。毎日のように来てくれたこのOLさん達ともお別れだ。もう二度と会うことはないだろう。
 えっ……!?和泉さん……?
 少し離れた場所に立っている和泉さんは、俺が二度見すると、かすかに微笑んで、小さく手を振った。
 俺は軽く会釈する。自分でも表情がこわばっているのがわかった。笑顔になんかなれねえよ。だって、俺は拒絶されたんだから…。
 俺達はほんの一瞬、目だけで会話した。
「何しに来たんですか?」
「いや、ちょっと近くまで来たから顔を見に」
「ふうん、そうですか」
「元気なのか?」
「和泉さんに関係ないでしょ」
「いや、あるよ」
「なんで? 俺が元気かどうか和泉さんに関係ありますか?俺は和泉さんにとってどういう存在なんですか。元教え子?元同僚?弟?俺のキスにも告白にも、心は少しも動かなかったくせに。元気かどうかなんて関係ないでしょ。もう帰ってください」
「……わかった……。じゃ、行くよ。くれぐれも体には気をつけろよ」
 和泉さんは、小さく二度うなずいて、手を振った。その頬に浮かんだ寂しげな笑みが俺の胸を締め付ける。なんでそんな顔するんだよ。やめてくれよ。もしかしたらって勘違いしてしまうじゃないか。俺のこと、ものすごく大事に思ってるんじゃないか、俺のことを、本当は好きなんじゃないかって思ってしまいそうな顔、やめてください。
 和泉さんの背中が、ものすごく、ものすごく…。いや、いや、そんなはずはない。俺がいなくなったって、和泉さんが寂しいはずはない。
 だけど、和泉さんの姿が消えた後も、あの背中が風に乗って饒舌(じょうぜつ)に語りかけてくる。
「菊…お前がいないと、落ち着かねえんだ。寂しいよ…」
 そんな風に聞こえてしまう。そんなはずないのに。俺はただ、和泉さんの人生を横切っただけの人間なのに。絶対、俺がいなくなったって、和泉さんはちっとも寂しくなんかないはずなのに……。
 

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