花火と嫉妬

 処置が早かったため、犬養がクラゲに刺された箇所は赤い腫れが少し残っただけですんだ。夕食が終わると彼はボストンバッグから何かかさばった物を取り出し、それを高く上げた。
「ジャーン! 夏と言ったら花火っしょ!」 
「だからそんなに荷物が多かったんだな」
 秋臣の呆れ顔に、犬養は親指を立てて見せた。
「先輩、早くやりましょう! 智夏君もおいでよ」
いそいそと立ち上がった犬養が大きく手招きした
 「ここ片付けてから行きます」
 叶人はテーブルの上の器を集め始めた。その背中はもう智夏に戻っていて、秋臣はホッと胸をなでおろした。
 それからしばらく経って、叶人はスイカや飲み物を用意して縁側に姿を見せた。
 庭にいた犬養が「智夏君やろう! どれでも好きなのを選びなよ」と花火セットを見せた。
 叶人は庭に降りて、花火セットの中から線香花火を選び取った。ライターの火がこよりの先を燃やして、パッと火の花が咲く。細く短く枝分かれした火花がパチパチと弾けるような音を立てて指先と顔を照らした。陰翳をまとった横顔に光が射し、昼間とは違う見知らぬ叶人を浮き上がらせた。ゆらゆら揺れる光の動きに合わせるように、その瞳が魔性めいた光彩(こうさい)を帯びて煌(きら)めいている。
 秋臣は何かこの世のものではないようなものに魅入られたかのごとく、叶人の横顔から目が離せない。
「お父さんも降りて来てよ。一緒にやろう」
 叶人の声に秋臣はふっと我に返った。
 庭に降りて線香花火を手に取ると、犬養も線香花火を一本抜き取って地面にしゃがみこみ、火をつけた。
 三本の線香花火が闇の中に光の花を咲かせた。激しく燃えた花火はまたたく間に燃え尽きて小さな火玉をポトリと落とした。
 「なんだか……人生みたいだなあ。諸行無常」
 思わず口をついて出た秋臣の言葉に、犬養が明るく乾いた笑い声を立てた。
「先輩、何言ってるんですか。まだ若いのに年寄り臭いこと言わないでくださいよ」
 秋臣は照れ隠しに、こよりをバケツの水の中に放り込み、縁側に戻った。
「先輩、もうやめちゃうんですか。この花火、湿気てしまうから残さない方がいいですよね。智夏君、二人でやろうよ」
 犬養はこより二本に火をつけ、叶人に一本手渡した。そして火玉が落ちると、またすぐに二本の花火に点火する。いかにも楽しげに振り子のようにそれを揺らす犬養とどことなく気が乗らない様子の叶人は対照的だった。線香花火を全部使い切ると、犬養は縁側に座ってスイカに手を伸ばした。
「ああ、日本の夏っていいっすねー! スイカに線香花火。情緒豊かってこういうことをいうんですよね、先輩」
 スイカのタネを勢いよく地面に飛ばし、屈託なく白い歯を見せた。
 叶人は秋臣の隣に座って「僕もスイカ食べる」と秋臣の肩に顎を乗せた。
思いがけない行動に、秋臣はいきなり動悸が激しくなる。大皿に盛られたスイカの中から一番大きいひと切れを手渡すと、叶人は「塩かけて」と少し鼻にかかった声で言った。
 犬養が「わー、智夏君、甘えん坊だなあ」とからかいの声を上げた。
「先輩、めちゃくちゃ子煩悩ですねえ。目の中に入れても痛くないって感じ」
「え? ああ、まあ一人息子だし、普段離れて暮らしてるからね」
 しどろもどろの言い訳を、犬養は少しも疑っていないようだ。その時、麦茶ポットの中で氷がピシッと透明な音を立ててひび割れ、叶人はガラス玉のような瞳で琥珀色の海に浮かぶ氷を見つめた。
 壁に掛かった振り子時計がボーンボーンと眠たげな音を鳴らし始めた。
「もう十二時か。今日は疲れただろう。そろそろ寝ようか」
 秋臣が立ち上がると、犬養は露骨に不服そうな顔をした。
「もう寝るんですかー? あーあ、楽しいと時間が経つのが早いっすね」
「じゃあ、ここに布団敷くよ。僕と同じ部屋でいいかな?嫌なら…」
 言いかけた秋臣の言葉をいきなり叶人がさえぎった。
「僕がお父さんとこの部屋で寝るから、犬養さんは僕の部屋を使ってください。ね、お父さん」
 叶人は有無を言わせぬ強い眼差しで秋臣を見た。
「え? ああ、そうだね……」
 曖昧な返事をしながら叶人とひとつ部屋で寝ている光景が頭に浮かび、心臓がドクンと鳴った。
 犬養は慌てた様子で「いやいやそれはダメだよ」と手を振った。
「智夏君は勉強もあるんだから。俺はこの縁側でいいよ」
 縁側の床をポンポン叩く犬養に、叶人は「今日はもう寝るだけですから大丈夫です」と笑顔で返した。その物言いにも表情にも、絶対に譲らないという強い意思が感じられた。
「だから僕の部屋、使ってください」
「智夏君ってほんとに優しいね。ありがとう。じゃあそうさせてもらおうかな」
 犬養はどこまでも素直で、叶人の言葉の中の頑なさにはまるで頓着しないようだった。

 叶人はトレイを台所に持って行き、犬養は二階に上がった。
部屋に一人残った秋臣は、押入れを開けて敷布団二枚とタオルケット二枚、そして枕を二つ出した。これをどう敷けばいいだろう。二枚並べて敷くのか、それともかなり離した方がいいのか。考えあぐねても答えは見つからない。
 秋臣はのろのろと敷布団を一枚広げ、タオルケットと枕を置いた。そこに麦茶を入れたポットとコップを持った叶人が入ってきた。そして、なんの躊躇もなく敷いてある敷布団の横に、もう一枚をぴたりとつけて敷き、仰向けに寝転んだ。
 ふた組の布団の間に隙間がないことに秋臣は無頓着を装ったが、やはり視線はそこに行ってしまう。
「片付けなんか明日でもよかったのに。今日は疲れただろう」 
 秋臣の声かけには答えず、叶人は聞こえよがしにため息をついた。 
「智夏のイメージってはあいつなんだね」
「え?別にそんなつもりはなかったけど」
「嘘だ。無意識にあいつのこと思い浮かべてたはずだよ。一流大学出身で、大企業の社員で、人懐っこくて、明るくて、いい家の子で、みんなに好かれてて、まんまあいつじゃん」
 叶人の声は鋭く尖って毒を含んでいた。
「さっき遠坂さんが風呂入ってた時さあ、あいつとしゃべったんだよ。そしたら、あいつこんなこと言ってた。試験勉強大変だろうけど、努力は必ず報いられるし、諦めなければ必ず夢は叶うから頑張れって。それから、親が離婚して寂しかっただろうけど、あんな素晴らしい父親がいて君は幸せだとか。あんま覚えてないけど」
 叶人は冷笑を浮かべながらしゃべったあとで、いきなり手を叩いてくつくつと笑った。
 たったひとつしか違わない叶人と犬養だが、その人生はなんという相違だろう。犬養はこの世界は公平で善意と愛に満ち、努力すれば叶わない夢はないと無邪気に信じて疑わない幸運な人間の一人なのだ。叶人が親に捨てられた孤児で、金で雇われて人を騙しているなどと想像もできないだろう。行間を読むことなどできず、元々行間など空白だと考えているに違いない。
なんの悪気もない純粋さは時に残酷に人を傷つけることもあるのだ。
 叶人への憐れみが、心の深いところに沈殿して行く。彼をかわいそうに思う気持ちは出逢ってすぐに芽生えていた。しかしその想いはいつの間にか何か別の、似て非なるものに変容しようとしているような気がした。
 くるりと背を向けた叶人の肩が何かを語ろうとしていた。
「もしかして、あいつのこと好きなんじゃないの?恋人候補?」
「まさか!」
「だって理想の男じゃん。何もかも揃ってる。学歴だって職業だって」
「恋愛するときに、学歴だの勤め先なんか関係ないよ」
 叶人が弾かれたようにくるりと向き直り、目をそらさずまっすぐ秋臣の目を見つめた。
「じゃあ、中卒で孤児で無職でも恋愛対象になるのかよ?」
 秋臣はその不意打ちに声を飲んだ。叶人がそれをどういう意味で言ったのかわからない。一般論なのか、それとも自分と叶人の関係を指しているのだろうか。射るような視線に耐えられず、秋臣は目をそらした。
 それを否定ととったのか、叶人は失望とも軽蔑ともつかない昏(くら)い眼差しを投げてまた背を向けた。その背中は見えない鎧で覆われ、秋臣を無言で拒絶していた。
 明かりを消して目をつぶったものの、叶人の寝返りの音や微かな息遣いが耳について、秋臣はなかなか寝付けなかった。

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