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牧の独り言 「家族になるということ」

春田さんさえいてくれたら、何もいらない。
心の底から強く強く思っていた。ちずさんと春田さんが抱き合っているのを見てしまった時も、黒澤部長と春田さんが結婚式を挙げている時間に、スーツケースを引きながら川べりを歩いていた時も、ただひたすらに思っていた。春田さんがいてくれたら、何もいらないのに…と。
だから春田さんが真っ白いタキシード姿で現れて「俺と結婚して下さ〜い!!」と絶叫して俺を抱きしめてくれた時「もう何もいらない。何一つ欲しいものなんかない」と、心の底からそう思った。あの瞬間、俺の手の中には確かに世界があった。完璧な世界が……。
 だけど、春田さんと暮らし始めてわかった。完璧な世界は砂山のようにもろくてガラス細工のように壊れやすいんだと。
 仕事で疲れて家に帰ってきた時、流しに洗い物がたまっているのを見ただけで、完璧な世界は崩れてしまう。
 春田さんがいてくれるだけで幸せ過ぎて何もいらないはずだったのに、散らかった部屋を見たとたん舌打ちしてしまう。どうしてカップラーメンの容器を捨てないんだろう、なんで掃除機くらいかけてくれないんだろう。
 黙々と掃除機をかけていると、情けなさとか苛立ちとか、負の感情が湧き上がってきてしまうのだ。
不器用な春田さんが二人分のオムライスを作ってくれたのに、ケチャップやこぼれた飯粒が散乱した台所の惨状に無性に腹が立った。
「散らかし怪獣」である春田さんの脳内には「片付ける」というワードが存在していないということは昔からわかっていたし、そういうところも含めて愛していたはずなのに…。
ここ最近、俺は心身ともに疲弊している。年下のマロが中国の顧客との打ち合わせでいきなり中国語をしゃべりだした時のショックが胸の中で尾を引いていて、何かに追い立てられているような焦燥感を抱えているのだ。だけど、春田さんにこの気持ちはわからないだろう。春田さんなら後輩が成長して頑張っている姿を見ても焦るどころか、心からそれを喜ぶに違いないから。
「なんであの時、あんなに怒っちゃったんだろう」
 冬枯れの道は凍てついて、後悔の気持ちがじわじわと湧き水のように胸に上がってくる。
春田さんの右手の甲に小さな火傷痕があったけど、あれはきっとオムライスを作った時にフライパンで火傷したんだろう。
「跡が残らないといいな」
 思わず声になった。
その時ふと、マロが言っていた言葉を思い出した。
「感謝の気持ちはちゃんと表現しないと伝わらない」
マロは正しい。感謝の気持ちも、ごめんなさいの気持ちも、愛してるの気持ちも、ちゃんと言葉や行動にしないと伝わらない。
思わず立ち止まった視線の先で、ショーウインドーの中の赤いマフラーが手招いていた。

 会社の玄関を出たら、綿雪が舞う中を春田さんが俺に向かって走ってくる姿が見えた。
カイロを渡すためにだけ電車に乗って迎えに来てくれる人が俺の夫なんだ。鼻の奥がツンと痛くなった。
俺は春田さんに、今日買ったマフラーを渡した。いつものように子供のように手放しで喜んでくれる。八つも年上なのに、この笑顔を見ると、いつも可愛いと思う。愛しいと思う。 
どうかこの笑顔がずっとずっと見られますように。この笑顔が曇るような悲しみが春田さんに降りかかりませんように……。
「初詣、行きましょう」
 なぜか口からポロリと出た。
「行く行く行く〜」
 春田さんが、目尻にしわを寄せて嬉しそうに笑った。めっちゃ可愛い……。
 優柔不断だけど、服は脱ぎっぱなしだけど、ポテトチップスの屑を床に落としまくるけど、朝起きられないけど、家事下手だけど、春田さんは春田さんのままでいい。春田さんのままがいい。
春田さんは人を「否定」しない。俺が何かをしようって提案したら、大抵「うん、しよう!」って笑顔で言ってくれる。一緒に楽しんでくれる。基本、いつだって俺を肯定してくれる。
世界中の人が敵になって俺に石を投げたって、春田さんだけは石を投げない。俺をかばって一緒に痛い思いをしてくれるだろう。
いいよ、散らかしても。服脱ぎっぱなしでもいいよ。カップラーメンの容器も…それはGがくるからできれば片付けて。
神社でお参りをしたあと、春田さんは空に向かって叫んだ。
「大好きな牧と幸せな家族になれますように〜!!!」
そうか、「家族」なんだ…!俺たちは今、家族になるためにスタート地点に立っているんだ。
いっぱい愛し合って、いっぱいケンカして、ゆっくりゆっくり家族になっていこう。
「俺も同じだよ〜!!!」 
 俺の声は、空に吸い込まれていった。
「ねえ牧、鍋焼きうどん食いてえ」
 春田さんが俺を抱き寄せて言った。
「はいはい、帰ったら作りますよ」
「えっ! 作ってくれんの? マジで? コンビニで買って帰るんじゃなくて? めんどくさくない?」
「めんどくさいけど、作りますよ」
「やった〜!! 牧が作ってくれる鍋焼きうどんが世界一うまい」
 今夜春田さんはうどんを食べながら、いつものように椅子の上で座ったままぴょんぴょん跳ねるだろう。そして「うんめ!」と顔をくしゃくしゃにして笑うだろう。これからずっと一緒にご飯を食べて、笑い合って、そうやって家族になっていこう。
俺たちの靴音が、また降り出した雪の間を縫うように響きながら、初春の虚空に溶けていった。

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