和泉のひとり言

 心臓が跳ね上がった。息ができない。
秋斗が目の前にいる!!!
 俺は、とうとう頭がおかしくなったらしい。秋斗を失ってから、ずっとずっと彼のことしか考えられなくて、それ以外は全て遠景でしかなかった。
 だからきっと頭の中の何かが狂ってしまったのだろう。
 武川部長は秋斗を「係長の春田」と紹介し、秋斗は「春田です。どうも」と言った。
 春田!?
 頭の中がぐちゃぐちゃになった状態で、俺はパソコンの前に座った。もう何も考えられない。仕事なんかできるはずがない。
 
 まっすぐ帰宅する気持ちにならず、徘徊する老人のように歩き回った。菊はもう仕事を終えただろうか。誰もいない家に帰るのが恐ろしかった。
 冬の陽は早々と西の空に沈み、淡い街灯のあかりの下をトボトボと歩きながら、空を見上げた。
「秋斗、お前のいたずらなのか?お前らしいなあ。俺の困った顔を、そこから見て笑ってるんだろう。クソジジイ、びっくりしただろう。ザマミロとか言いながら」
 鉛のように重い足取りで、家のドアを開けた。すると、シチューのいい匂いとともに、菊がキッチンから出てきた。
「おかえりなさい。遅かったですね。寒かったでしょう」
 いつものように明るい笑顔で俺のカバンをスッと取った。
「お腹すいたでしょう。もうできてますよ。ビーフシチューですけど、フランスパンにします?ご飯の方がいいですか?」
「え?ああ、じゃあフランスパンで」
 電気のついた暖かい部屋、夕食の匂い、優しい笑顔…。凍っていた心が一気に溶けて行く。
 熱々のシチューはいつものようにうまい。きっと菊は何日も前から煮込んでくれたのだろう。
 「うまい」
 「よかった」
  菊の顔がパッと輝いた。
 「仕事初日どうでした?」
 「それなんだけど…」
 「え?何かあったんですか?」
  菊の顔が曇った。
 「もしかして嫌な奴とかいたんですか?パワハラ上司とか。もし和泉さんがパワハラされたら俺、撃ちますよ」
 半分本気なんじゃないかと思うくらい、菊の目がギラリと光った。
 「いやいや。春田さんっていう係長がいて…。秋斗に瓜二つで…」
 「ああ…」
 意外にも菊は全く驚かない。
「俺、現役の公安なんで全部調べてます。天空不動産も、この近所も。その春田さんっていう人の家、隣ですよ」
 菊はこともなげに左の方を指さした。
「えっ!と、と、隣?なんで言ってくれなかったんだ」
「和泉さんにはショック療法が必要かなと」
「ショック過ぎたよ」
 菊は深々とため息をついて、遠くに目をやった。
「ショック療法で少しでも前を向けるようになるといいですね」
「お前は?平気なのか?秋斗とそっくりな人が隣で…」
「その人は秋斗じゃないですから…。むしろ、秋斗の記憶が少しでも塗り替えられるかもしれないじゃないですか。俺も和泉さんも」
 そんなことはあり得ない。秋斗の記憶が塗り替えられるなんてあり得ないのだ。俺の腕の中で最期の息を吐いた秋斗のあの顔、あの声、あの言葉…。俺の魂に刻み付けられた秋斗の記憶が、春田さんによって塗り替えられるなんて…。
「秋斗…」
 無意識につぶやいた俺の手を、菊がそっと握った。
「いつか絶対俺が、秋斗の仇を討ちますから…」
「いや、俺がやる」
「和泉さん、もう腕なまってるでしょう。俺がやりますよ」
 俺は菊の手を振りほどいた。
「全く生意気な弟だな。俺はお前の元教官だぞ」
 菊はそれには何も返さず、寂しげな微笑みを浮かべた。
 時々、菊の頬に落ちる寂しげな影は、どこから来るのだろう。親友を失った悲しみなのか。それとも公安という、人に知られてはならない孤独な職業のせいなのか。
 訊いてみたいと思うが、それを拒絶する何かが菊の瞳の中にある。だから今日も俺は沈黙するしかなかった。


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