秋臣、美貌の青年に秘密を打ち明ける

 もし結婚する前にあの写真を捨てていたら……。
秋臣は今まで何百回何千回悔やんだか知れない。あれさえ捨てていれば、自分も母さんも智夏の成長をずっと見守ることができたのに。
 十五年前のあの日、夕暮れの黄昏時に、妻の真理子は秋臣の秋臣の書斎で机を背にして立っていた。何かを探していたのか、引き出しが開いたままだ。
「これは……何?」
 真理子は青ざめた顔を引きつらせ、ポラロイド写真を床に投げ捨てた。それは机の一番下の引き出しの奥にしまっておいたものだ。
 そのツーショット写真は、夏祭りのお面を売っている出店の前で撮ったもので、フラッシュのせいで秋臣の隣にいる青年の目が赤く光っている。
「その写真が……どうかした?」
 投げ捨てられた写真の中から、青年が……白川匠(しらかわたくみ)が赤い目で秋臣を見つめていた。秋臣はカメラ目線ではなく、匠の顔を覗き込んでいる。
 二十五年前に撮った写真は少しあせてしまっているが、秋臣の瞳の中にある想いは長い年月を経てもなお輝きを喪(うしな)ってはいなかった。その瞳が饒舌に語る真実に、どんな言い訳もできなかった。
 真理子は鋭い視線で、秋臣をすくい上げるように見つめた。
「あなたは……私と結婚して幸せ?」
「もちろんだよ!」
 その言葉に偽りはなかった。温かい家庭の中にはいつも笑い声が満ちていたし、真理子を心から好きだった。
「すごく幸せだよ」
「じゃあ、私を女として愛してる?私に恋心を抱いたことはある?」
 不意を突かれた秋臣はグッと喉が押しつぶされたようになり、とっさには言葉が出てこなかった。その一瞬の沈黙がどんな言い訳も通用しない証拠になってしまった。
 真理子は青白い頬をさらに白くして長い息を吐いた。
「ずっと違和感を感じてたの。それがなんだったのか、やっとわかった」
 重苦しい沈黙だけが二人の間を埋めていた。陽が翳り、部屋の中が徐々に暗くなっていく。
 何か言わなくちゃ。秋臣は必死で言葉を探した。しかしどんな言葉を口にしたところで、二人の関係を終わらせるだけだということは直感でわかっていた。声のない一秒一秒が永遠に思えた。
「離婚……しましょう」
 沈黙を破った声はかすかに震えていた。それでも秋臣は何も答えられない。敗北感に打ちのめされてただうなだれるしかなかった。
 秋臣は部屋を出て行こうとする真理子の腕をつかんで引き寄せ、強く抱きしめた。
「許してくれ。僕は君と智夏に一生尽くす。君が望むことはなんでもする。だから離婚なんて言わないでくれ」
 真理子はうめき声をあげて秋臣の腕を振りほどき、泣き崩れた。それは秋臣が初めて見た妻の涙だった。
「知ってしまった以上、もう無理! 偽りの結婚生活なんて、私には耐えられない」
 真理子の喉が笛のような音を立てるのを、秋臣は呆然と聞いていた。妻をこんなにも悲しませ、泣かせてしまった自分が許せなかった。
 この人をこれ以上苦しめてはいけない。この人を引き止めてはいけない。別れてあげることが唯一の贖罪になるのだ。

 匠とは大学で出会った。互いに一目惚れで、二人とも「付き合う」のは初めてだった。同じ授業を履修し、学食でランチしたり映画を観に行ったり、小旅行をしたり……。初恋の相手と過ごす日々は夢のように幸せだった。しかし、大学を卒業して就職し、三十という年齢が視界に入ってきたあたりからその幸せに影が射し始めた。友人が結婚したり子供が生まれたりする中で、ふとこのままでいいのだろうかと自問自答するようになったのだ。母を安心させてやれない、孫を抱かせてやることができないことが何よりも辛かった。焦燥感と罪悪感にさいなまれる日々が続いた。そんな時、中学の同窓会で真理子と再会し、それがきっかけで度々会うようになったのだ。
「中学の時からずっと好きだったのよ。忘れられなかった」
 再会から数ヶ月経ったある日、真理子から告白されて激しく心が揺れた。
葛藤の末、秋臣は苦渋の選択をした。母のために自分の幸せを諦めると決めたのだ。母を幸せにすることを人生の目的にして生きてきた秋臣には、どうしても自分の幸せを優先させることができなかった。
 秋臣は、気持ちを固めて匠に別れを告げた。彼はきっと何かを察していたに違いない。怒りをぶつけることもなく恨み言も言わない彼に対して、どんな謝罪の言葉も無意味だった。   
 匠を一方的に傷つけて結婚したのに、こんな形で失敗してしまったことが、情けなく、悔しく、恥ずかしかった。
 真理子は一歳になったばかりの息子とともに家を出て実家に戻った。
 寿美子に電話で離婚したことを伝えた時、電話の向こうで絶句して息を飲む気配を感じた。
「性格が合わなくて、結婚生活がうまくいかなくなった」という嘘を、母が信じたはずはなかった。秋臣と真理子は本当に仲の良い夫婦だったのだから、きっと何か他に理由があるに違いないと思ったはずだ。
 しかし、それを深く追求することもなく、責める言葉も一切口にしなかった。辛いはずなのに、ただ「真理子さんもあなたも可哀想……」とつぶやいただけだった。
 それから一年半後、真理子は再婚して息子とともに、夫の赴任先であるアメリカに行くことになった。
「あの子は夫にとても懐いてるの。できれば夫を本当の父親だと思わせたい。それがあの子にとって一番幸せだと思う。残酷なようだけど、父親としてあなたにできる唯一のことは、あの子の父親をやめることだけなの……」
 秋臣はそれに否を唱えることはできなかった。息子の幸せを思えば、それが正しいとわかっていた。
 真理子と息子が日本を発つ直前、真理子は秋臣と寿美子に智夏と過ごす最後の時間をプレゼントしてくれた。それは美しい秋の日だった。
「パパ、パパ」
 小さな指が指したのは陽の光を受けて赤い色をさらに際立たせたハナミズキの小さな実だった。
 幸せな時間はあっという間に過ぎ、別れの時間が迫っていた。
 秋臣は息子を抱きしめ「智夏、元気でいるんだよ」と耳元でささやいた。
「パパ、バイバイ」 
 迎えにきた真理子に抱かれた智夏はモミジのような手を振った。
 それが、秋臣が聞いた息子の最後の言葉になった。
 もう十七歳になっている智夏はきっと何年も前に声変わりしてしまっているに違いない。しかしハナミズキを指差した息子の幼い声が、十五年経った今でも耳の中にずっと残っている。
 しかしたとえ最愛の母の願いであろうと、智夏に会うことは絶対に許されない。会わないことだけが息子の幸せのためにできる唯一のことなのだ。もしここで決心が揺らげば、空白の十五年間が無意味になってしまう。
 母の願いを叶えるには、誰か智夏の代役を立てるしか道はなかった。

 秋臣は隠し通してきた秘密を会ったばかりの男に包み隠さず話した。ゲイであること、そのせいで離婚したこと、母の最後の願いを叶えてやりたいこと。すべて洗いざらい話さななければ、相手を納得させられないと思ったのだ。
「俺、もう二十六だよ」
 じっと黙って聞いていた男がなんの感情も見えない声で言った。
 二十歳そこそこだと思っていた秋臣は少し驚いたが、三十過ぎた俳優が高校生役をやることだって珍しくない。
「それは問題ないと思います。君は若く見えますから。夏休みを利用して日本に遊びにくるという設定にするので八月いっぱいまででいいんです。息子のふりをして母と僕と三人で一緒に暮らしてくれるだけでいい」
役者は眉をしかめて黙り込んだ。今にも断りの言葉を口にしそうで秋臣は焦った。
「金欠だと言いましたよね。失礼ですが、十分なお礼をさせてもらいます。お願いします!」
「うーん……やってもいいけど……」
「ほんとですか!?」
 秋臣は両手をついて床に頭をこすりつけた。
「ありがとうございます!」
 嬉しい気持ちでいっぱいだったが、同時にじわじわと不安も頭をもたげてきた。役者のあまりの気負いのなさと気だるい様子が気になり出したのだ。ちゃんと真剣に演じてくれるだろうか。しかしもう躊躇している時間はない。この出逢いは運命なのだと自分に強く言い聞かせた。
「自己紹介が遅れて申し訳ない。僕は遠坂(とおさか)秋臣です。よろしくお願いします」
「凪叶人(なぎかなと)」
 面倒くさそうに言って頭をかいた細い指は、まるで若い女のそれのようにキメが細かくなめらかだ。
「もしかしたら、この高校生役が俺の最後の役になるかもしれないな」
 独り言のようなつぶやきを、秋臣は聞き逃さなかった。
「最後って?」
「もうそろそろ役者やめようかと思って。俺、多分才能ないから。人生やり直すなら早いほうがいいし」
 凪は、窓の外に目を移した。
「雨、止んだな」
 長いまつ毛の下の黒目がちの瞳はひどく虚ろだった。完璧な線を描く鼻梁といい、形の良い唇といい、神仏が気まぐれに時間をたっぷり使って創ったような顔は凄絶なほど美しかったが、その体全体から発せられる何かが秋臣の心をざわつかせた。それが何なのか、言語化できるほど凪を知らない。ただ凪の横顔を見ていると、なぜか哀しみに似た感情を覚えた。

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