夏祭りの夜に

 車の中で叶人は一言も言葉を発しなかった。眠っているのかずっと目を閉じたままだ。
 家から数分というところまで来た時、ようやく叶人は目を開けて大きく伸びをした。
「祭りでもやってんのかな」
 道の両側を、浴衣に身を包んだ人たちが歩いている。
「ああ、この近くの神社で夏祭りをやってるんだ。子供の頃、母が毎年連れて行ってくれたよ。懐かしいな」
 叶人の目が、色とりどりの浴衣を追っていた。
「あのさあ……嫌なら別にいいけどさ、おばあちゃん誘って三人で行くっていうのはどう?」
 思いもかけない提案に、秋臣は一瞬戸惑ったが、
「ああ、いいね。行こう行こう」
 と、即答した。
 
 家に着くと、叶人はまっすぐ寿美子の部屋に駆け込んで、ベッドで横になっている寿美子の手を取った。
「ねえおばあちゃん、今日白龍神社の夏祭りなんだって。三人で行こうよ」
 寿美子は起き上がって嬉しそうに叶人の手を握り返した。
「夏祭り? もうそんな時期なの? でも今日はやめておくわ。人が多いでしょうからね。二人で行ってらっしゃい」
「え〜、行かないの?」
 叶人は、不服顔で頬を膨らませた。
「あ、そうだわ」
 寿美子が立ち上がって、檜の和ダンスの引き出しを開けた。
「よかったら、これ、着てくれないかしら。これはね、智夏君がうちに来るって聞いて大急ぎで仕立てたの」
 中から取り出した白絣の浴衣は糊が効いていかにも涼しげだった。
「下駄も買ってあるわよ」
「わー、おばあちゃんありがとう!」
  叶人は浴衣を胸に抱きしめて目を輝かせた。
「僕、浴衣着たことないんだ。おばあちゃん着せてくれる?」
  愛する孫に甘えられて、寿美子はとろけそうな顔をしている。
「ええ、ええ、着せてあげますとも。じゃあ、秋臣はちょっと出ててちょうだい」
 言われるままに茶の間でスマホを見ながら待っていると、ふすまが開いた。
「お父さん、どう?」
 目を上げると、敷居ぎわに叶人が立っていた。その姿に、秋臣は息を飲んだ。
 白紺の浴衣に濃紺の帯を締めたその姿は、まるで明治の文豪が書いた小説の中から抜け出してきたようだ。
 秋臣は賛辞の言葉さえ忘れて見入ってしまった。
「似合う?」 
 秋臣の沈黙に、叶人は不安を感じたのか、「え? 似合ってない? 変?」と言葉を重ねた。
「まさか! とてもよく似合ってるよ。似合いすぎてびっくりした」
 思わず本音が出た。
 叶人はちょっと驚いた顔をして、おかしそうに笑った。
 
 まだ暮れ切っていない西の空だけが赤い色を残していた。残照を背にした桜の木々が無数の葉っぱを黒々と揺らして影絵のようだ。
 神社にはもうたくさんの人が集まっていた。参道の両側にはたくさんの屋台が並び、焼きトウモロコシやイカ焼きの香ばしい匂いが漂ってくる。向かい合って建ち並ぶ屋台の間を隙間なく人が行き交い、この町にどこから湧いて出たかと不思議なくらいの人出だ。まるで満員電車のようで、香水の匂いや酒気を帯びた口臭からも逃げられない。
 人波に揉まれてなかなか前に進めない叶人を右手で抱き寄せ、左手を盾にして彼をかばいながら歩いた。
 腕の中で秋臣を見上げた叶人が「あれ食べたい」と手を伸ばした。指の先に見えたのはかき氷の屋台だった。
 店に行き「何にする?」と訊くと叶人は「いちご練乳」と即答した。
「僕も子供の頃いつもそれだったよ」
 シャカシャカと音を立てて削られた氷の上から赤いシロップと練乳がかけられた。それを受け取った叶人は一秒も待たずにかきこんだ。氷を噛み砕く音がいかにも涼しげで耳に心地良い。
「うっ、痛―!」
 いきなり叶人が眉間あたりを押さえて顔をしかめた。
「急いで食べるからだよ」
 秋臣が笑いながら赤い液体を滴らせている口元を自分の袖で拭ってやると、叶人は舌をペロリと出して見せた。赤く染まった舌が数日前に触れた唇を想起させ、一瞬クラリとめまいがした。

「パパ、あれ取ってよー!」
 射的の前で小学校一、二年生くらいの子供が体をくねらせて焦れていた。
 父親らしき男がコルク銃を構えた。
「よーし、任せとけ」
 ポンと音がして台にのっているペンケースが倒れた。
「やったー!」
 子供はぴょんぴょんその場で飛び跳ねた。
 その様子をぼんやりとを見ていた叶人が抑揚のない声で「あの景品欲しい。お父さん取ってよ」と、一等賞の景品を指差した。大きなだけで何の特徴もない熊のぬいぐるみだ。
 しかし秋臣はどうしてもそれを叶人のために取ってやりたかった。射的など子供の頃にしたきりだ。
 秋臣はコルク銃を構え、息を止めて撃った。しかしわずか数センチのところで玉は外れてしまった。
 二発目も外し、額と脇が汗でビッショリになってしまった。
 秋臣は深呼吸して三発目を撃った。玉はまっすぐに飛んで、狙ったぬいぐるみに当たった。
「わっ! 当たった! 当たった!」
 叶人の喜びようは、先ほどの小学生よりずっと子供っぽく、秋臣の笑みを誘った。
 ぬいぐるみを渡された叶人は、何も言わずにぎゅっと抱きしめ熊の頭に顎をのせた。
「こんな物がそんなに嬉しいの?」
「うん」
 叶人はちょっと照れたように笑って「次は金魚すくいしたい」と秋臣の腕を引いた。
 屈託のない澄んだ瞳は幼な子のようでもあり、何かを企んでいる小鬼のようにも見える。
 二人きりだというのに、叶人が智夏の演技を続けている様子に秋臣は戸惑っていた。もしかしたら、自分をからかっているのだろうか。それとも、意図せずに智夏に成りきっているのだろうか。
 自分の意思で作り上げた幻想の世界と現実世界との境目が曖昧になっていく危うさを恐れつつ、秋臣は虚構の世界に身を委ねた。
 金魚すくいの店で、叶人は針金に薄い紙を貼った「ぽい」を両手に持ち、瞬(またた)く間に二匹捕まえた。
「見て見て、俺初めてなのにすごくない?」
 しかし店主がビニール袋に金魚を入れようとすると、叶人は立ち上がって二匹とも水の中に放した。
「生き物は飼えないから……」
 その瞳は少し寂しげだった。
「ヨーヨー釣りしようよ。家に持って帰れるし」 
 人波をかき分けながら店を探している途中で、秋臣は叶人の浴衣がひどく着崩れていることに気づいた。帯が腰骨よりだいぶ上にずり上がって前がはだけてしまっている。
「ちょっと浴衣直そうか。こっちに来て」
 人が少ないところに連れて行き、するすると帯を解いた。たちまちボクサーパンツが丸見えになる。
「おい、何すんだよ」
 叶人はまわりを見回した。通りすがりの女達が耳打ちし合って、笑いながらチラチラと盗み見ていく。
 秋臣は浴衣の襟先を揃え、「ここ持ってて」と叶人に言って帯をつかんだ。両脇に手を入れたら、まるで叶人を抱いている格好になり、首筋のホクロが目の前にあった。
 秋臣は気恥ずかしさを無表情で覆い隠し、大きな咳払いを一つして帯を結んでやった。綺麗に直線を描いた背縫いに指をそっと這わせ、ついてもいない埃を払ったり、首のあたりの襟元を少し引いてみたりする。最後に前に回って襟先を整えるふりをしながら惚れ惚れとその姿に見入った。
「うん、これでいい」
「着物の着付けまでできるんだ」
 それは褒めているわけでも感心しているわけでもなく、呆れているようだった。
「母さんが和裁の内職をしてて、出来上がった男物の着物は必ず僕が試着してたんだよ。仕上がりの感じを見るためにね。それでなんとなく覚えた。お盆とか正月には必ず着物を着させられたしね」
「着物似合いそうだよね。なんか武士っぽい」
 ぶっきらぼうな褒め言葉に、秋臣は心をくすぐられた。
「遠坂さんにできないことってあるの?」
「料理もできないし、人を笑わせることもできないし、歌も下手だし、できないことだらけだよ」
 叶人がクスッと屈託のない笑顔を見せ、その笑みに誘われて秋臣の口元も緩んだ。叶人の笑顔がたくさん見られた今日が特別な日に思えた。
「さてとヨーヨー釣りに行こうか」
「うーん、もういいや。りんご飴でも買って帰ろう。おばあちゃんのお土産」
 歩き出した叶人の歩き方が秋臣はふと気になった。微妙に体が傾いている。
「足、どうした?」
「指の間がちょっと痛い」
 どうやら下駄が新しいので鼻緒が食い込んだようだ。
「俺、下駄はいたの初めてなんだよ。脱いで歩こうかな」
「ダメダメ! 今日は人がこんなに多いんだから何が落ちてるかわからない。ほら乗って」
 秋臣は片膝をついて凪を振り返った。
「家までおんぶしてやるから」
「えっやだよ、恥ずかしい」
「いいから、ほら」
 若い頃バスケットボールで鍛えた秋臣の筋肉はまだ健在だった。身長も叶人より十センチ以上高い。負ぶって歩くくらいたやすいことだった。
 叶人がおずおずと背中に両腕をかけた。
「もう少し体重増やした方がいいぞ。夏バテする。もっとしっかり食べなくちゃ」
「父親かよ」
「父親だよ」
 秋臣と叶人の間に挟まったぬいぐるみが柔らかく背中を押している。
足をぶらぶらさせながら、叶人が「サンキュ」と消え入るような声で呟いた。
「え? 何が?」
 しかし叶人は答えなかった。ただ小さく息を吐いて秋の首元にそっと頭をつけた。
 耳にかかる熱い息が甘かった。まだ叶人の舌は赤いのだろうか。秋臣はそんなことを考えながら目の前に広がる空でまたたく星を数えていた。
 

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