菊さまの秘密の……

 和泉さんの視線の先には、走り去る黒塗りの車の後ろ姿があった。
「春田さんもお出かけなのかなあ…」 
 つぶやいた和泉さんの目はまだ車を追っている。
「気になりますか? 春田さん」
 和泉さんはフッと目をそらせて
「いや、別に」と答えたが、言葉より瞳は饒舌だった。
 あれほどまでに秋斗に似ていれば、気にならないはずはない。
 だけど、和泉さんって本当に鈍感だな。蝶子先生でさえ、俺の気持ちに気づいたのに…。心の中に秋斗が今も生きていて、ほかの人間のことなんか目に入らないんだろう。
 この熱海旅行から帰ったら、和泉さんから離れよう。辛いだけの恋に終止符を打とう。
 秋斗、お前には完敗だ。死んでしまった人間に勝てるはずがない。「俺には秋斗しかいない」と言う人を、どんなに愛したって孤独なだけだ。
 人生には「もし」なんてものはないってわかっているけど、「もし」を考えずにいられない。
 もし俺が先に、秋斗に「和泉教官、好きかも」って秘密を打ち明けていたら……。
 生まれながらのヒーローの秋斗は、絶対に「俺も」なんて言わなかっただろうし、和泉さんとバディーになっても、付き合ったりしなかっただろう。そして恋心を胸に秘めたまま、黙って死んでいったに違いない。あいつはそういう奴だった。
 まさか、秋斗が和泉さんを好きだなんて、「逮捕」しようとしてるなんて想像もできなかった。いつもいつも和泉さんに反抗的で尖っていて、まるで反抗期の十四歳だったから。あれは、好きな人に意地悪をしたくなるという「ガキのアルアル」だったんだろうか。
 蝶子先生は「気持ちを伝えなくて後悔しない?」と訊いたけど、多分後悔はしない。どうせ受け入れてなんかもらえない。俺は所詮「弟」でしかないんだから。
 俺はずっと夢見ていた。眠っている和泉さんに秘密のキスをした時、和泉さんが目を覚まして、俺にキスを返してくれる瞬間を。
 だけど、和泉さんは元公安とは思えないほど無防備で、俺のキスで目を覚ますことは一度もなかった。なんであんなに鈍感なんだろう。よく公安がつとまったものだ。
 俺は今まで、それとなく気持ちを小出しにしてきた。秋斗みたいに、大胆にも小悪魔的にもなれないが、言葉の端々に気持ちを織りまぜてきたし、夏に半裸でうろついたり、何気ないスキンシップをしてみたりもした。悪い奴らに返り討ちにあった和泉さんを何度もお姫様抱っこして寝室に運んで、体を拭いてあげたりもした。スキンシップ多めの治療や介抱に、うっかりその気になってくれないかなという下心も多少あった気がする。それくらいもう、プライドは捨て始めていた。
 だけど、やっぱり秋斗じゃないとダメらしい。俺じゃダメなんだ。
 秋斗が生きてる間も、死んだ後も…俺はずっと二番なんだ。秋斗は絶対的ヒーローで、絶対的主役だった。肉体が滅んだ今も、秋斗は和泉さんを独占している。悔しいし、恨めしい。なあ秋斗、お前がいる場所から俺達が見えるか?秋斗がいなくなって、心の奥底で、少しだけホッとしたってことを白状するよ。ごめんな。
 だけど、だけど…お前がこの世界のどこにもいなくなって、しみじみ寂しい。お前じゃなければ埋められない心の隙間があるんだ。俺たちは警察学校で互いに切磋琢磨(せっさたくま)して頑張ったよな。競い合って、励ましあって、一位と二位を独占した。一緒に酒も飲んだし、俺の祖父が亡くなった時には、俺と一緒に葬式にも出てくれた。覚えてるか?お前が先にインフルエンザで寝込んだ時には俺が看病して、そのあと俺が寝込んだらお前が看病してくれたよな。あの時、お前が握ってくれたかつお節のおにぎり、めちゃくちゃ不恰好だったけど、うまかった。あの頃、ほんとに楽しかったよなあ。
 夕暮れ時に、一人で街を歩いていると、無性にお前に会いたくなる時がある。和泉さんの心をあの世に持って行ってしまった奴なのに。それでもお前が恋しいよ。お前はマジで存在が罪だ。
 秋斗、秋斗、頼むよ。頼むから持って行った和泉さんの心を返してやってくれよ……。  


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