音楽に歌詞をのせるという行為はいつから始まったのだろう。

Route 5 Bayshore Line

初めて聴く楽曲がライブだったりすると、その楽曲の映像は、ライブの時の映像になることが多い。その時の自身の感情もそうだけれど、その時の周囲の景色や一緒にいた人のこと、その日の温度や風の感じetc。音楽の思い出は大変雄弁であるが、その言語化が難しい。
この楽曲を初めて聴いたのは、夏の野外だった。
暑い暑い夏。初めて、新卒で入社した会社で出会った後輩のGLAYファン2人と一緒に泊まりがけで2days参加した夏のライブ。
1日目が終わった後に、この楽曲の話をした時の見解が二分した。

●後輩曰く、夏っぽくてとても良い曲。(見解:後輩2名)
●一方の自分。友人の恋人を好きになってしまった苦しい胸の内を歌っ感情揺さぶられる曲。(見解:私)

結局、私の解釈が当たっていた。
だてに後輩よりも少しだけ長くGLAYの曲を聴いていないさ。
明るいメロディに乗せられた切ない歌詞は、2日目のライブで再確認され、3人で顔を見合わせた。

曲調だけから判断すれば、それは明るいPOPな楽曲。多少の切なさは楽曲から感じられるけれど、歌詞がなければ、この楽曲が切ない曲であるという判断をするひとは少数だろう。
そう思うと、歌詞が楽曲の方向性を決定づけていることが理解できるし、そこに合わせて楽器隊が音を乗せていく。この歌詞でなければ、おそらく音作りのベースも変わっていたことだろう。

切ない楽曲でありながらも、キラキラした感じを受けるキーボードの音は、その切なさそのものが、青春で眩しくて、夏の陽射しのようであることのたとえのように感じるし、ドラムのテンポは、心のドキドキした感じを表現しているように思えるし。
歌詞がもたらす世界観の影響は、その楽曲の行く末を決めているかのようにも思える。一体、音楽に歌詞を乗せる都いうおこないは、いつから始まったのだろうか。

それでもやっぱり音楽は映像だから、切ない夏のPOPソングというよりも、
夏の真夏の太陽の下でキャッキャしながら、GLAYのライブを楽しんだ画ばかりが脳内再生される。特に、野外だったことが結構大きくて、その時の空気感とか、肌に感じた暑さとか、そういうものまでセットで想い出される。
夜ご飯を求めて歩いた時に見た建物とか、そういうものももちろん一緒に。

夏の野外ライブ、久しぶりにまた参加したいな。


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