「きせきのはて」は「奇跡の果て」ではない。「軌跡の果て」である。

軌跡の果て

当日10代前半だった私は、「軌跡」という単語をまだ知らなかった。「軌跡」を知ったのは、この楽曲があったから。音読みのひらがな・カタカナ表記だったら、「奇跡」か「軌跡」か分からない。口にした時のイントネーションは違うが、ついつい「奇跡」のイントネーションの方を口にしてしまう。だが、「キセキノハテ」の場合、「奇跡」と「軌跡」では「果て」としての結末が全く違うものになるだろう。いや、奇跡はきっと軌跡の上にしか起こり得ないのでないか。そうだ、この2つの言葉は因果関係にあるのだ。
・・・とこういう考えを深めてくれるような、当時は紙の辞書を何度も調べるきっかけを作ってくれるのがGLAYだった。

これまた、20代の若者が書いたのかと思うほど、現在妙齢(と敢えて言おう)の私にぐさっと刺さるのだから、名曲と言われる楽曲は色褪せない。なぜ、リリースから25年以上が経過しているにも関わらず、未だにそこに古さや時代感のようなものを感じない。むしろ今聴いた方が、この楽曲が持つ説得力のような、悟りの境地のようなものを芯から感じる。曲を作っている段階で、ここまで聴かれることを想定していたかどうかは定かでないが、少なくともどんどんと新曲が量産される中で、埋もれる楽曲の方が圧倒的に多い時代の中で、こんなにも長きにわたり、自らが演奏し続けるイメージはさすがに持ててはいなかっただろう。

もともと詞のパワーが強くて、説得力がある楽曲を来年デビュー30周年を迎えるバンドが今の状態で歌い、演奏したら、それはもうリアル「軌跡の果て」になる。自分たちが積み上げてきたもの、築き上げてきたものがあるバンドがやってこその楽曲だろう。詞は、今を見据えて作ったのか?というくらい今の状態がハマるし、楽曲の持つ重みは、1000回以上ステージで演奏を重ねてきたからこそ、生々しく表現できる。繰り返しになってしまうが、積み上げてきたもの、自分たちが歩いてきた道に対しての誇りを持っているからこそ、そこにリアルでオリジナリティのあるストーリーが生まれる。

詞もよい、歌力(うたぢから)もある。そして、この流れるよう、歌うような、でも決してボーかルやドラム以外の他の楽器の前に出ないようにしているベースの味わい深さよ。イントロからベースの地固め感がきっちりとしているとか、ギターのようなメロディアスさがあるとか、そういう点がベースのこの楽曲における役割というか、立ち位置というかそういうものをしっかり定義づけられているからこそできるのだと感じた。

「生き急ぐ」…その言葉を覚えたものも、その意味の深みを知った時ものおそらくこの楽曲だったような。
GLAYの詞は、自分の中の語彙力やそれを知りたいという知的好奇心を盛り上げてくれる。

https://www.youtube.com/watch?v=Q9egQRXrLcQ

#GLAY #軌跡の果て #軌跡と奇跡 #生き急ぐ

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