「思い出」の並木道は、虚像だったのかもしれない

出逢ってしまった2人

「並木道」という言葉に対して、自分にとってこれほどまでにしっくりくる場所ができるとは、思いもしなかった。そう、今、住んでいる場所が並木道に面した場所だからだ。南北に伸びる道路を多くまで眺めていると、不意にこの楽曲のことを思い出す。特に、秋になって木々が黄色く色づく頃、もしかしたら「並木道」ってここなのではないかと思うほどに、特に秋の夕方過ぎには、少しだけ切なさを帯びた表情を見せてくれる。
ただ、この場所に辿り着くまでは、どこともない並木道を想像し、この楽曲を聴いていたのだろうか。実はそれが判然としない。ただ、確かに映像があったことは確かで、それが並木道であったことも事実なのだが、どこのどんな映像だったのか、今の並木道に上書きされたことで、記憶が曖昧になってしまったことがなんだか切ない。

初めて「出逢ってしまった2人」を聴いた時、楽曲の奥に潜む重さのようなものに妙に惹かれた。美しい景色を描いているにも関わらず、なぜ心が重くなるのだろうか。いや、重いという表現は正しくないようにも感じる。それこそ、イントロからずっと楽曲の底の方に鳴るベースの音が、自身の心臓の音のように思えるほど、ベースの音が、響いて離れない。しかも、ちょっと引きずるようなリズムが、どこかに大切なものを置き忘れてしまって、でもそれがどこに置いてきたのかが思い出せずにモヤモヤしている感じに似ている。その大切なものの置き場が見つからず、心さえもここにないようにも思えてくる。
その気持ちが、どこまでも伸びている並木道の風景に重なる。道が終わるずっと先に、終着点があるのだろうけど、それはずっとずっと先で、どこまで進めばこのモヤモヤした感覚がスッキリするのかが見えない。そのちょっとした心の激しさやモヤモヤを表現できないもどかしさを、間奏のギターがこれまた的確に表現してくれる。ただ、絶望ではない。出口が見えずに、何もつかめない苛立ちに似た感情もあるけれど、その向こうにあるものにちゃんと手を伸ばせるだけの力はあって、それを探そうとする意思もある。
ただ、それが見えない窮屈な感覚、そこがこの楽曲の間奏で奏でられているギターの音だと思う。

もしかしたら、最初の映像は、具体的な並木道ではなかったのかもしれない。思いが作り出したものが、映像のように錯覚されて、それが聴く度に少しずつ変化をしていって、想像した並木道に出逢ったことで、具体的な映像になった。それが、上書きされた。ちゃんと変遷を経て、今の形になった。

秋の気配の並木道に 黄昏をよけて恋人達

通い慣れたあの並木道に降る 白い雪になぜか泣けた

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少し景色が進み、登場人物の関係性にも変化があり、でも並木道が続いている現実は変わらない。詩的な楽曲だと改めて感じる寒さが残る春間近。

#GLAY #出逢ってしまった2人 #並木道 #黄昏をよけて #映像の上書き

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