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緑の紙切れは、はたして玉虫色か?

星図にも載っていない辺鄙な宙域のはるか奥地、銀河の西の渦状腕の地味な端っこに、なんのへんてつもない小さな黄色い太陽がある。
この太陽のまわりを、だいたい一億五千万キロメートルの距離をおいて、まったくぱっとしない小さい青緑色の惑星がまわっている。
この惑星に住むサルの子孫はあきれるほど遅れていて、いまだにデジタル時計をいかした発明だと思っているほどだ。
この惑星にはひとつ問題がある、というか、あった。そこに住む人間のほとんどが、たいていいつでも不幸せだということだ。
多くの解決法が提案されたが、そのほとんどはおおむね小さな緑の紙切れの移動に関係していた。これはおかしなことだ。というのも、だいたいにおいて、不幸せだったのはその小さな緑の紙切れではなかったからである。
というわけで問題はいつまでも残った。人々の多くは心が狭く、ほとんどの人がみじめだった。デジタル時計を持っている人さえ例外ではなかった。


- ダグラス・アダムス著『銀河ヒッチハイク・ガイド』より

緑の紙切れ、つまりは紙幣。紙幣、つまりはお金。

冒頭の引用にあるとおり、我々人間は"小さな緑の紙切れの移動"について、「お金のこと」に人生の大半の時間と認知資源を費やしている。
いつも何かしらのカタチで使用・携帯・移動させている数字のかたまりについて。
ひいては、お金を持っていても持っていなくても、お金のことをふとした時に考えている。*

緑の紙切れ(ドル札において)は、物理的には「グリーン」以上でも以下でもない色を帯びているが、僕たちは往々にして、文脈的に・心理的に・比喩的に、お金に対して「色」を見ている。
なぜだろうか?
答えは出ないだろうが、お金の色について考えてみることにする。

*語弊を避けるために補足しておくと、「人間一般がいかにして金儲けをするかについていつも考えている」といったことを言いたいのではない。

背景

お金の流れをカラフルに

- 家入一真(2019)

株式会社CAMPFIREのコーポレートページにこの言葉が表現されて以降、僕はお金の色についてものすごく考える。

ともすれば、「綺麗」、「汚い」、「卑しい」、「尊い」。いかにも形容しうる。
「マネーロンダリング」、「マネーメイキング」、「ビッグマネー」、「マネーゲーム」とお金にまつわる言葉もたくさんある。
いったい、「お金とは何なのだろうか」と。
しかしながら、お金自体は何なのか、概念としては自明は自明。

物やサービスとの交換に用いられる「お金」を、経済用語では貨幣、または通貨と呼ぶ。貨幣とは、経済学上は、価値の尺度、交換の媒介、価値の蓄蔵の機能を持ったものの事である。
- wikipedia「貨幣」より
〖貨〗 (貨󠄁) カ(クワ)
1. ねうちを持つ品物。財宝。 「貨財・貨殖・貨物・貨車・雑貨・舶貨・載貨」
2. 代価として通用する品物。金銭。 「貨幣・金貨・銅貨・悪貨・通貨・硬貨・外貨・鋳貨」
〖幣〗 (幣󠄁) ヘイ ぬさ・しで・みてぐら
1. 神前に供える、きぬ。しで。にぎて。ぬさ。 「幣帛(へいはく)・幣束・幣殿・奉幣・御幣(ごへい)・例幣使・国幣社」
2. 通貨。 「貨幣・紙幣・造幣・幣制」
- Google 翻訳より

それよりも、「お金はいかに解釈されうるのか」といった金銭観に僕は関心があるといった方が正しい。
「価値の尺度」・「交換の媒介」・「価値の蓄蔵」の"機能"でしかないお金。
これら機能のみでお金を捉えると、フラットに見える。
ただの数字の羅列なだけで。

・りんごは100円、いちごは500円(価値の尺度)
・みかんを120円で買う(交換の媒介)
・30万円が床下にしまってある(価値の貯蔵)

いまでは、みかんを手に入れるために「りんごと交換してくれ」なんて言わないし、「りんごを10個、銀行に預けたい」などと発言したりはしない。当たり前だが。

重さ、美しさ、尊さ

お金に対する考え方,接し方は複雑多様である. その一つが,お金さえあれば何でもできる,お金こそいちばん貴い物であるとする考え方(拝金主義)であり,いま一つに,お金は汚いもの,お金のことを口にするのは卑しいことであるとする考 え方(排金主義)がある.
- 浅野(1996)より

1000円札、1枚約1g。

「一生懸命働いて手に入れた、1000円」
「人からいただいた、1000円」
「たまたま箪笥で見つけた、1000円」

「1000円」前の文脈いかんでは、重くも軽くも、美しくも汚くも見える。

そのお金の使途によっては、主観的な「気まずさ」さえ覚えるときもあるだろうし、竹を割ったような「気持ちよさ」を覚えるときもあるだろう。
客観的にも、お金の使途によっては、紙切れ自体が汚くも綺麗にも見えるときもあるだろう。

拝金主義-排金主義、では表現しえない軸もありえる。

「熨斗に包んでお金を渡す」という慣習と行為。
まるで汚いものをあえて綺麗なものに加工してきたような歴史の産物。
「ゲンナマで渡すのは失礼」といった。
わたしからあなたにお金を渡している、移動させている、ただそれだけにもかかわらず、だ。「もうAmazonギフト券でいいよね!」と開き直ると、怪訝な顔をされる類。
機微といえば機微。

「キャンペーン」というプロモーション。
API経由で飛んできた、コードの反復でしかない数字で表されたお金にすら、綺麗だとか汚いだとか。
キャンペーンコードでしかない文字列にすら、綺麗だとか汚いだとか。
何か思惑が見え隠れして感じる。

「錬金術」という術。
粗雑な鉱物から金を生み出す術。
いまでは、お金を稼ぐ方法についてのアナロジー。
なんとなく、金色に、キラキラして見える。

とにもかくにも、行為と行為から推測される動機に紐づいて、綺麗だったり汚かったりするお金。

感情と文脈が色をつける?

自明も自明かもしれないが、お金の移動に正負の感情やそれにまつわる文脈がともなっていることが、ここまででの論で感じたこと。

人間一般が、自己や他者の行為に対し原因帰属を行う時に、感情などの内部要因に因果を求めるのか、環境や文脈などの外部要因に因果を求めるのか、といったことは「対応バイアス」などといった用語ですでに語り尽くされている。

他者の行為のみならず、お金に対しても、人の心理を説明する対応バイアスのような原因帰属がされうるのではないか。

集団メンバーの行動を観察したとき,その行動が彼ら自身の選好と反していると推測する者ほど,却って当該行動の『規範性』を認知し,それに沿って振る舞う。

個人は、自分の選好ではなく、推測された他者の選好に基づいて次の行動をとる。

-岩谷,村本(2017)『多元的無知の先行因についての検討―他者の選好推測に注目して―』より

要は、お金に対する「綺麗・汚い」といった色を感じることに関しても、集団的に形成されたお金に関する規範やムード、オーダー、印象といったことを推測し、それに基づいた感情や文脈への解釈の帰結として、色を知覚するのではないかと考える。

日本人が「雨」に関する語彙を、エスキモーが「雪」に関する語彙をたくさん持つように、「お金」の貴賎に関する語彙から、お金に対する色を知覚しているということも仮説としてはとりうる。

愛想尽かしは金から起きる
悪銭身に付かず
阿弥陀の光も銭次第
地獄の沙汰も金次第
一文銭で生爪はがず
金があれば馬鹿も旦那
金の光は七光り
財少なければ悲しみ少なし
銭ある時は鬼をも使う

結論、「お金に色がある」というよりも「わたしたちはお金に色があると知覚してしまう」ということ。良くも悪くも。

僕は「クラウドファンディング」といった仕組みに長く携わってきた。
これまでのクラウドファンディングの歴史において、それは「お金を集めること」自体に「共感」「信用」「共犯関係」「想い」「熱意」などといった、他者との関係性を多分に付帯させ表現させる仕組みとも言える。

そう考えると、お金との向き合い方は他者との向き合い方にほぼ等しい。
綺麗と見るか否か、汚いと見るか否か、その尺度だけでは足りない、多元的・多面的な関係。

そんななか、お金(と他者)との向き合い方において、フレンドファンディングサービス「polca(ポルカ)」では、「お金の流れをカラフルに」といった社の理想に向き合うひとつの過程として、僕たちが大切にしたいことを明文化した。
お金にさまざまな色を知覚されようが、トライやチャレンジには貴賎がないと考え、明確に区別する。

さまざまな角度からお金を見て、彩り、どちらかといえばポジティブで前向きにお金が循環していく社会が望ましいとは僕は思う。

であれば、緑の紙切れを玉虫色に見ることができる可能性は想像力を掻き立てられるし、そんな彩りを楽しんで向き合っていきたい。

And it don't matter
If you're rich or fat
Come together
-God Help The Girl "I'm not rich" より

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