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「女」の定義―トランスフォビアを見て思うこと―

沈黙は差別への加担である。
これは私が幼少期から身に染みている言葉の一つだ。

今回筆を執ったのは、trans-exclusionary radical feminist(通称TERF)の唱える説があまりに暴力的で、目を覆いたくなるような性質のものだったためである。
「トランス女性は男です」のハッシュタグとともに投稿された画像に、私は愕然とした。
あまりにひどい。

そしてこのあからさまな暴力に対し、傍観に徹することができなかった。

以下に、問題だと感じている投稿および画像を引用することを容赦してほしい。
沢山の方が嫌な思いをするだろう。
けれど、この画像がなければ話は進まないので、渋々、本当に嫌々、使用させていただく次第である。

ちなみに私はこの画像の権利が誰にあるのか存じ上げない。
もしご存じの方が居たら、責任の所在を明確にするためにも、ご一報いただけると幸いである。

トランスフォビア画像

1.トランス女性≠性犯罪者

この画像の最大の問題点は、トランス女性を「性犯罪者だ」と断定し、そうした意識を植え付けようとしていることにある。
これは由々しき事態である。
なぜならトランス女性の多くは性犯罪者ではないからだ。

まともな人間ならご存じだと思うが、日本では、否、世界的に見ても、シスジェンダー・ヘテロセクシャルの人間は多い
母数が多いということは、犯罪者の数も、性的マイノリティよりも圧倒的に多いはずだ。
現にあらゆる性犯罪はシスジェンダー・ヘテロセクシャルによって引き起こされている。
しかし私たちはシスジェンダー・ヘテロセクシャルに会っても「犯罪者だ!」とは言わない。
シスジェンダー・ヘテロセクシャルという属性を、すなわち犯罪と結びつける人はとても少ないのだ。
なぜだろうか。

それはシスジェンダー・ヘテロセクシャル=犯罪者という認識にしてしまうと、日常生活に不便だからだと考えられる。
シスジェンダー・ヘテロセクシャル=犯罪者の公式を正としてしまうと、接している人間の大半は犯罪予備軍ということになり、誰を警戒していいかわからなくなってしまう。
行く人来る人すべてに威嚇するわけにもいかないし、かといって人間関係を完璧に断つことも難しい。
結果的に「この世は公平で、全うに生きていれば悪いことは起きないんだ、悪いことが起こったなら、その人はそれだけの悪事を働いたということだ」と理解するようになる。
犯罪者の属性ではなく、被害者の在り方に原因を見出すことで、大多数の人間が犯罪者予備軍であるという事実から目を背けるのだ。
これは心理学の用語でいう公平世界観仮説と密接に関係していると私は考えている。
私たちが生きる上で、あらゆる認知は歪んでいることの表れだろう。

言うまでもないことだが、犯罪者の多くがシスジェンダー・ヘテロセクシャルであるからといって、シスジェンダー・ヘテロセクシャルの多くを犯罪者呼ばわりしていいわけがない
罪を犯すのは一部の人間であり、大多数のシスジェンダー・ヘテロセクシャルは善良な市民である。
私たちはそのことをよく知っている。

ところが、である。
私たちは自分たちの良く知らない物事について、一部の情報を参考に、全体を予測しようとしてしまう。
つい最近の事例だと、外国人在留者が農作物を盗んだ容疑で逮捕された事件があるだろう。
それを見た人間の大半はこう思ってしまう。
「外国人在留者は窃盗犯が多い」と。

もちろん、「そんなこと考えたこともない」と言う人はそれでいい。
その感性と理性をとにかく大切に育んでほしいと思う。
しかし、そうでない民はいる。
冷静に考えれば、ここが日本である以上、圧倒的多数が日本人なはずなのだから、窃盗犯だって日本人の方が多いに決まってるのである。
にもかかわらず、「外国人は罪を犯す」と誤解する人が大勢いらっしゃるのもまた事実なのだ。
看過できる問題ではないだろう。

この問題を、私たちは日常的に使う言葉で説明できる。
そう。
「差別」である。

2.差別をされている≠他の人を差別をしていい

ここで、簡単に私のことを紹介しておこうと思う。
私は在日外国人に生まれ、高校までを外国人コミュニティで育てられた。
両親のどちらも外国人であるから、いわば純血の外国人である。
そして、日本においては少数派も少数派だ。
こうした経緯から、私は幼稚園児の頃から、差別というものに直面していた。

給食を「校庭で食べろ」と言われたことがあるし、着替えるのが遅いからと全員の見世物にされたこともある。
齢5歳にそんな仕打ちをできる理由が、他にあるだろうか。
これが、記憶にある最古の差別である。
小学校に上がれば石を投げられた。
中学校の制服を着れば「国に帰れ」と怒鳴りつけられた。
高校生になってからは社会的な弾圧を痛感するばかりの日々だった。

別に苦労自慢がしたいわけではない。
事実としてこうしたエピソードがあったということを、説明しておかなければならないというだけのことだ。

さて、こうした差別を浴びて育った私が、大人になって痛感したことがある。
自分が差別をされているからといって、誰かを差別していい理由にはならないということだ。
私が民族的マイノリティであるからといって、他のマイノリティに大して横暴にふるまっていい道理はない。
同様に、女性が差別を受けているからといって、トランス女性を差別していいわけがない
差別はみな等しくしてはいけないことなのだ。
女性が差別を受けていると訴えたいのなら、自らの差別行動について自覚し、そして戒める姿勢が必要ではなかろうか。
ましてや、差別を批判する口で「トランス女性は男です」だなんて、唇が裂けたとしても言っていいはずがない。

マジョリティであることは、それだけで膨大な兵器を持っているのと同じだ。
少数派の声を踏みにじるようなことは、断じてあってはならない。

3.「女」とは果たして誰なのか

ここで、寡聞にして最近知った言葉を伝えておこうと思う。
セックスはジェンダーである。
ジュディス・バトラーという哲学者の言葉らしいが、私は著作を拝読したわけではないので、正確なことは言えない。
ただ、今の社会では男女二元論で語られるのが当たり前すぎて、私は反発するのも疲れてきたところだったのだけれど、この言葉に出会って視界が開けたのである。

私たちは生まれた直後、男か女かをジャッジされる。
けれど、そのジャッジの基準すら、人の文化の中で生み出されたものだという意味ではなかろうか。
だとすると、私たちの男女の理解は、脆くも粉々に崩れ去ることになる。

トランスフォビアの皆々様は染色体を例に挙げることがあるが、もしXX染色体以外を女と認めないとすると、インターセックス(Difference of Developmen:DSD)に生まれる人はどうなるだろう。
ターナー症候群(性染色体が「X」のみ)の人は女性と認めないのか。
クラインフェルター症候群(性染色体が「XXY」)の人はどうなるのか。
男女二元論の中に納まることができない染色体の持ち主は、少なからず存在している。

じゃあ染色体じゃなくて、身体的特徴で区別しようというなら、それも難しい。
外性器・内性器を持たない人物は一定数いるし、そうした人物を男女の枠に押し込めるのは乱暴だ。
生物学的に卵巣を持つものを女、精巣を持つものを男としたとしても、卵巣を摘出した女性や無精子症の男性があぶれてしまうことになる。
他にも様々な男女の区分について、誰かが我慢を強いられたり、不当な扱いをしていることは明白である。

ここまで読んだ方にはもうお分かりだろう。
男女の区分というものがいかに曖昧かつ不確かで、まったく【自然】なものではないということが。

だから、性自認の出番なのではないだろうかと、私は思う。
性自認(gender identity)は、自分はどの性であると認識しているかという自己意識のことだ。
私たちを男/女たらしめる要因は、最終的にはこの性自認によるところが大きいのではないだろうか。

4.終わりに―私たちには対話が必要だ

とりとめもない文章になってしまったこと、まことに申し訳ない。
読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。

私は生まれて女とジャッジされた身体を持っているけれど、女扱いされるのがとにかく嫌だった。
「女だから」「女なのに」「女のくせに」「女だからって」――何もかもうんざりだった。
かといって、男になりたいわけでもなかった。
男というのは女を虐げる象徴で、私はそうした人間になってしまいたくはなかった。
自分の置かれている状態を説明する言葉に出会ったのは、ごく最近だ。
最近はアジェンダ―またはノンバイナリーという解釈で落ち着いているけれど、また変えたいと思う日がくるかもしれない。
誰かのためにも、いつかの私のためにも、トランス女性が女性として、トランス男性が男性として受け入れられる日を目指して、ここに認める次第である。

大前提であるけれど、あなた方が男であること、女であることを否定する意図はない。
男であることにアイデンティティを感じている人もいるだろうし、女に生まれたことにポリシーを持っている方々も大勢いるはずだ。
そうした規範の中でこそ呼吸ができる人たちの存在を、無視してはいけないと思う。
同様に、その規範では息苦しいのだと訴える声もまた、聞き逃してはいけない。

少数派が生きやすい社会は、多数派にとってけして、居心地の悪いものではないはずだから。​

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