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ことしのわたし


年の瀬の行事で
どうしても外せないのが
おはなのお稽古納めだ。

お煎茶に興味があって、
お稽古に通っていたおうちでいけばなも教えていたから
というふわっとした理由でおはなを始めた。

花を触ること、眺めることは好きなのだけど、
「あなたが美しいと思うように
 花を活けましょう」
というていで花を前にすると
萎縮してしまってどうしていいかわからなくなる。
私の感じる「美しさ」が、
誰にでも見える形で不完全にそこに出てくることに、
どうしても苦手意識が拭えない。
たぶん、もっと独創的なものを求められるところだったら
いたたまれなくなって続かなかっただろうし、
型のようなもののかっちりあるところだったら
型に隠すことばかりうまくなったと思う。

都の粋人が
暑気払いで逗留するから、
せっかくだから茶を喫し、詩画を愉しもう
という小さな趣味の集まりから始まった、
おおらかでローカルなところで
おはなを始められたのは
実はすごく幸運なめぐりあわせだったのかもしれない。

文人趣味の色が濃い我が流派では
華は客人をもてなす、しつらえのひとつ。
華の美しさは、華がもともと持っているもの。
「威厳正して座に座り、華の声をば先に聴け」
と、教わる。
花を前に、どうしていいかわからなくなった時は、
本当はどう生えていたか、
どうすればよく伸びるかを考えて
よく見る。
それの繰り返しで、最近やっと趣味の欄に
「華道」と書けるようになった。
ちっちゃく。

どうしても時間はかかってしまうけど
普段のお稽古は、
おおむねなんとかなっている。
習ってるの若先生だし。
お手上げを申告すれば、助けてくれるし。
ただ、お稽古納めは。
お稽古納めは別格で、
年の瀬にお稽古場の玄関を開ける時は、
ちょっと気合がいる。

緊張の原因は
まず、ご指導が大センセであること。
御歳はちじゅうななさい。
明るく、溌剌としたすてきな先生だけれど、
華で一生涯を立ててきた人の見る目は、だいぶ厳しい。
そして、花材が「お好み」なこと。
玄関やら床の間やら、飾るとこが多い家もあるし、
お正月くらい好きな花がいいでしょう?
というすてきな慣例とお花やさんの心意気で、
かなりの数のお花が運びこまれていて、
好きな取り合わせを考えることができる。

はじめてお稽古納めに行った時は、
ただただぼうぜんとした。
今も、最初は立ち尽くすところから始まる。

他の人がどんどん選んでいくのを見送りながら、
あっちへ行き、こっちへ戻り、
花の前をまごまごとうろつく。
なんなら華展とかの時より悩むし、
一旦花器の前に座って、
もっかい選び直す時もある。
全然決まらないから本当に困る。
でもたのしい。
だって「私」が去年と違うから。

例えば束で置いてある松の中から
使いたい状態にあっててコンディションの良いのが
見てわかるようになっていたり、
ここにこの花を足すと映える!
と自信を持って鋏を入れれたりする。
小さなことだけど、
去年とははっきり違うことがうれしい。

そして、これは本当にこわくてすごいところで、
大センセのアドバイスは「今の私」に合わせたものに変わる。
「ここが悩みどこやの」
「そこからどうなさりたい?」
と後ろから声がかかると、背筋がビシィっとなる。
去年は大センセがさりげなく直してくれていたことにも
気づいていなかったことを、
今年は「考えなさい」と言われる。
心の中で「ひゃー」と思うけど、ちょっとにやけるくらいうれしい。
大センセのきれいな手が伸びて、
ほんの少し鋏が入るだけで、
ぐっと「美しく」なるのがわかることがうれしい。

一年の締めくくりだ。と毎年思う。
来年も今年と違う私になっていたい。
変化は小さくても、違う世界を見てみたい。
来年はどんな年にできるだろうか。
今年の私はこんな感じです。

                              若松,グロリオサ,キク

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