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真夜中のスリッパ

数年前の夏のはじめの頃、
私はひどくおなかをこわしていた。
しかも、暑いさなかだというのになんだか肩こりもひどくて、
首から頭にかけてがズキズキ痛む。
そんな時はきっと、家でゆっくり休むべきだし、
いつもなら山小屋行きはパスしてゴロゴロしていたと思う。
が、その日はなぜか、
置いていかれるのが異様にくやしかった。
あたしこんなにつらいのに!
放っておいてふたりでのんびり温泉なんて!
むしろ今、湯治が必要なのは私!!!
と、駄々をこねるように車に乗り込んで、
高速に乗る頃にはもう後悔していた。
つらい。
横になると路面がガタガタするのが頭にダイレクトに伝わって
脳がシェイクされるようだし、
縦になって姿勢を保っていられるほどの余力がハラにない。
父はこういう場合、
おろおろしてパーキングをみつけるたびに
停まろうとするようなタイプなのだけど、
姿勢を変えるたびに
ぶちぶち恨みごとをたれ流すような
めんどくさい状態の娘には
超ドライなのがウチの母で、
「富山かどっかでおろそうか?
 (そして電車で家に帰りやがれ)」
などと言われながら、
ハブとマングースを乗せた車は
深夜の1時を少しすぎた頃、山小屋にたどり着いた。

無人の小屋は
ひと息つくまでにあれやこれやと準備が必要になる。
電気を入れて、
水と温泉の栓を開けて、
雨戸も開けて。
どっから湧いてくるんかなぁという量の虫の死骸を片付けて、
荷物を運び入れて、
布団にシーツをかけて。
早く横になりたければ、手伝うしかない。
そしてこの数時間で地道に築き上げてきた緊張状態により、
だらだらしていたら母の冷たい視線が突き刺さるのは目に見えている。
脳内のイメージではカゲロウのように
薄く、頼りなくなっている
具合の悪い体を引きずりながら箒をかけ、
シーツを替え、
やっと整えた寝床に
意識を失うように倒れ込み、
(湿気がないので、布団がカビないことが幸い)
明け方、寒さで目が覚めた。

体調はマシになっていて、
それよりも山の寒さで冷え切っていたので、
とにかく体を温めようとお風呂に行く。
湯温の調節のため
温泉を細く流し続けているので、
まじりっけなしの源泉掛け流し。
湯気をはらんでぽかぽかする床に、
だから腐るのよねーと思いながら、
一番たわんでいるところをヒョイっと飛び越える。
ちょっとメキッといっちゃったとこを
ガムテで補強してあるので、
薄暗くても危ない部分がよくわかる。

温泉の成分がびりっとしみるのか
ただ熱いんだかわからないけど
少し刺激のあるお湯にどぼんと沈んで
芯までぬくとまると、
もういろんなことがザーッと体から抜けていく心持ちで、
きてよかったな。
あぁ、ここに来るまでに両親に当たり散らすんじゃなかったな。
とちょっぴり後悔。

水分補給にリビングへもどり、
ちょっと朝ごはんには早すぎるわよね。と
食料ぶくろをガサガサし、
そうだ髪を乾かさなきゃ。
と、もう一度お風呂場へ…
ここが危ないんだよー腐ってるからねーと、
大股でガムテープを踏み越えて、
よいしょと右足をついたその時、
なぜか左足が
スコンと下に。
うっそ…
と冷静に思いながら、
急にバランスが後ろに崩れたことで
全体重が左足にかかって、
手をつくこともできずに
そのまま一気に太ももまで落下。
スリッパが脱げて
「タシーン」
と音を立てて基礎のコンクリートに落ちるまで、
完全に思考停止していた。
スリッパが底に着くまで、体感は2秒くらい。
ん?2秒?長くない?
この建物、実はけっこう高さあるんちゃう?
そういや斜面に立ってるから、ここたぶん、実質二階くらいの高さだわ…
そう思いついてから、遅れて脳内大恐慌がやってきた。
だって「足場」だと思っていたところが抜けたのだもの。
その近辺の床が全部腐っていて、下手に動いたら普通に「落ちる」のだもの。
私、メジャーの頃の松井稼頭央よりちょっと軽い程度に体重があるのだもの!

時は真夜中。
落下、骨折、流血、破傷風などのワードが頭をグルグルし出し、
青くなっていたところで
母屋の方から父が
「おい、なんかすごい音したぞ、大丈夫か」
と言っている声が聞こえた。
あぁ、助けがくる、
笑われてもいい。
床が抜けて足が抜けないの!
助けて!と叫ぼう。
そう決意して、息を吸ったその瞬間、
そんなにも大きくない声で、
そして、たぶん父に向かって
母が、
「いちいち大げさ。もう本当にいちいち大げさ」
と吐き捨てたのが聞こえた。

母としては、事実を述べただけだろう。
大丈夫か?と思うなら見にいけばいいし、
何かあったのならすぐ声を出して助けを呼べばいい。
どちらでもなく、
ちょっとしたアクシデントならば
自分でなんとかするといい。
ここへ来るまでに愚痴と八つ当たりには散々つきあったし、
私は眠い。
だいたいそんな心境だったのだろうと思う。
しごくまっとうだ。
そして、そのまっとうな意見の動物的な迫力に
さっきまで強く自己主張していた
私の中の悲劇のヒロインは裸足で逃げた。
走って逃げていくヒロインの背中を見送りながら
逃げれない生身の私は
静かに自分で足を抜いて、
風呂場からお風呂の蓋を持ってきて空いた穴を塞ぎ、
机に
「床を踏み抜いてしまいました。ごめんなさい」
という書き置きを残して、
そっと涙をぬぐいながら布団に戻った。
足は、何度見ても無傷だった…

あれだけ腐っていたら
誰が踏み抜くかはただの確率の問題でしかなかったはずなのに、
もちろん朝、改めてたっぷりお小言をいただき、
父は終始無言であった。


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