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つぁらとぅすとら

知り合いの中で、
一番、不器用で無口な人を思い浮かべてみてほしい。
思い浮かべるだけでちょっと心がザワザワしたり、
先行きが心配になったりしないのであれば、
学生時代の父は、きっとその人より
さらに不器用で、もっと無口だった。

各方面からいろいろと話は聞くけれど、
それなりに社会生活を送れている父しか知らない私にとっては
なんというか、落語でも聞いているようなエピソードばかりだ。
ご参考までに
バイト先であった和田医院の娘さん、
かづ子さんの証言をここに記しておきたい。
(本当は、柔らかい松本のことばをそのままをお届けしたいのだけど)

「新しいアルバイトさんが来るっていうから
 朝からずっと気にしてたのに誰も来ないから、
 なんかあったかやぁって思ってたら、
 患者さんが、外にずっと立ってる人がいるけど…って言いにきて。
 あわってて出てみたら、
 そこの、門の前にポツンって。
 どんだけ立ってただ?
 呼び鈴くらい鳴らせばいいだに」
「ときに(とりあえず)電話番頼んだら、
 受話器はとるけど
 『はい、和田医院です』って、そんだけが言えなくてね。
 はぁ、こぉりゃ大変だ。どうすりゃいいかねーって
 困っちゃってねぇ」

笑った顔が地顔になっているくらい
いつもニコニコしているかづ子さんが、
この話をしている時だけは常に真顔だ。

ともあれ、父はかづ子さんご指導のもと、
それなりにバイトらしいことをできるまでになっていく。
むしろ、黙々と働き、
学生にしては珍しく
決まった時間にちゃんと来るので重宝されて、
卒業ギリギリまでバイトを続けることになる。
おっとりしたお嬢さんと評判だったかづ子さんの評価が、
「あれでわりと気が強い」
になったそうだけど、それはまた別のお話。

この、和田医院の院長である和田先生について、
実は私はあまり多くを知らない。
おひげを生やしていたこと、
お酒が好きだったこと、
先生の話になると、
わいわい話している人たちが、
すっと物思いに沈むように
ゆるやかに口を閉ざしていく。

名前を、口に出すだけで、
一緒にいた場所を思い出すだけで、
胸が詰まってしまうような。
懐かしい思い出を昔なじみと語り合うより、
じっと自分の中だけで抱えていたくなるような。
みんなにとって、
そういう先生なんだと思う。

若者がわいわいしているのが好きで、
大盤振る舞いが好きで、
バイトのいい加減さやこきたなさに
奥様やかづ子さんをはじめとする娘さんがたが
プンプン怒っていても、
「まあ、いいじゃないか」と
許してくれるのが先生だったそうだ。

なんだか何をするにもモタモタしているし、
暗く、
ほとんど口もきかない。
人柄は悪くなさそうだし、
数字は得意だろうと会計の手伝いを頼んだら
字が汚くて帳簿が読めない。
そんな父を和田先生は
「実直で嘘がない」と、
大切にしてくれた。
外の予定がある時はカバン持ちとして
父を連れ歩き、
ワルイことも覚えさせ、
父はバイトのない時も
和田家に入り浸るようになる。

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