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馬に蹴られず、鼠に曳かれず

父は、よく死んだふりをするオトナだった。
「あ、ああぁ‥‥」
などといって頭を押さえて倒れて、
本気にしてわんわん泣いていると
息も絶えだえという感じで顔を上げて、
「ショウちゃん、
 お父さんおらんくても、馬にも蹴られず鼠に曵かれず、
 大きくなってなぁ」
と言ってまた死ぬのだ。

あほらし。
とハナで笑える年齢になって、
そもそもその馬とか鼠とかなんやねん。
と冷たく問いただしたところ、
「親父がよく言ってたんだよ。
 ああ、俺はもうダメかもしらん。
 おとご(末っ子)は親がついとれんから不憫やなぁ。
 ちいぼ(小さい坊)、馬にも蹴られず鼠に曳かれず大きくなれよ。
 って」
と言われて呆れかえったことがある。
どうやらこの悪趣味な死んだふりは我が家の歴史ある伝統芸らしい。
天正だか慶長だかからつづく由緒正しい農家なので、
子どもが馬に蹴られたり、亡骸を鼠に齧られたりすることが
日常的に起こりえた時代から連綿と
コドモの前で死んだフリをし続けているのかもしれない。
‥‥いやな家だなぁ。

けれども。
おかげさまで父の「死んだ後のこと」がよく話題になる。
ハイハイ、死ぬのね。
じゃあ葬式どうするよ。
誰にどの順番で知らせる?
そういや〇〇はどこに置いてあるの?
ぶっちゃけ今どんくらい持ってんのよ?
まあまあいいお年頃になってきた昨今、
死んだふりの度に聞いとかなきゃいけないことを思いつく。
「いいよ葬式とか。誰にも知らせずに散骨してよ」
「ばっか。そんなことしたら、
 家にバラバラバラバラ弔問客がやってきて余計めんどいんだよ。
 ほら、この年賀状の束からうるさそうな人よけといて」
「あ、そういや〇〇くんの甥っ子が葬儀社勤めてるらしくてさ」
「だっから、そういうのを先に言おうよ。
 そこ使えたらカドたたないじゃん」
そういうことを、テレビを見ながら平気でしゃべれる。
ついでに母のことも聞く。
「死んだ後のことなんてどうでもいいけど、
 せめてお葬式の間くらいはケンカしないでほしいなぁ」
「じゃあ書いといて!
 せっかくお習字やってるんだから
 『私のお葬式で争わないでください』
 って一番綺麗な字で書いてくれたら、表装して葬儀場に飾るから。
 揉めたら無言で指さす係をやるよ」
回数と慣れってすごいもんだなと思う。
重要書類やハンコの在処を聞いとかなきゃなどという時期は過ぎ去り、
暗証番号より植木屋さんってどうやって頼んでんの?の方が気になる。
私が親より長く生きる保証もないっちゃないのだけれど、
話しておいて損することは何もないし、
どんだけ話し合いをしていても、思ったようにはいかないのが人生だし。
葬式に引きずられて、一歩手前の
亡くなる時の話もたくさんする。
もしごはんを食べれなくなった時、どうする?
「モノ食えなくなったら俺は俺じゃないよ」
兄‘sが臨終に間に合わなかったら、延命処置とかしてもらう?
「間に合わなかったら間に合わなかったじゃない?
 私は、しなくていいと思うけど、
 気がすむならしてもいいよ」
わりとエモーショナルなタイプの喪主(予定)をどう制御するか、
考える側に故人(予定)が含まれていると
ややこしいことの難易度が格段に下がるので良い。

なんかあったら化けて出てなんとかするから
というようなばかみたいな話から、
兄弟にも話せないような具体的な話まで、
いろんな話をしてきた。
わーわー言い合っている時のおしまいの話は
どんなに中身を詰めても苦しくないけれど、
居間ですーすー寝ている両親を眺めながら考える
遠くないおしまいの話は、
ちょっと考えにのせるだけで
足元が暗い底へ抜けていってしまいそうな苦しさがある。
長く実家で暮らしている私にとって、
ふたりがいなくなった後に来る静けさは、
知らない、きっと耐えらない静けさだ。
「ひとりぼっち」
だけがこの家に残ることを
想像するだけでじんわり涙が出る。

考えないで、アホみたいなことをたくさん話そう。
どんなに悲しくても、
「ショウちゃん、
 馬にも蹴られず鼠に曵かれず、
 大きくなってなぁ」
というあわれっぽい声を思い出せば、
ふふっと笑っちゃえる日が
きっと来ると信じられるから。

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