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現代語訳・翻訳で読むということ

主催のミニ読書会に向けて、泉鏡花『草迷宮』を読んでいます。

幻想的で神秘的。独特な文章。落語や講談、能も思わせる文体。流麗な日本語。現代と過去を行ったり来たりしながら進行する構成。あえての発話者の省略、語り手の変更。ひとりのセリフの長さよ—。

岩波文庫版はかぎりなく原著にちかいと認識しています。泉鏡花の小説なので、右脳で感じるような読み方がそもそも合っている性格があるとしても、むずかしい。一筋縄にはいきません。ちょっとページを戻りながら、また読み進めるかんじ。

困ったときのGoogle先生。しかし、読書ブログもそんなにないんですね。

いくつか情報をひろってみると寺山修司が映画化し、エロティックで幻想的な要素を取り入れて、パリで受け入れられたとか。同じ題材(稲生家の怪異譚)で稲垣足穂も小説化している(『懐しの七月』)だとか。そういう情報は背景としてキャッチ。ただ、読書ガイドは少ないんです。

そんな最中『草迷宮』の現代語訳版を発見しました。しかも、なんとKindleで読めるではありませんか!

結論、まあ読みやすい!おどろきです。現代語訳版、万歳。原著で一読したこともありますが、スイスイ入ってくる。足に重りを巻き付けて運動し、ついにそれを外したような感覚。

で、そこから原著に戻ってみると、これまたちがう景色が見えるのがおもしろいなあと。無意識的にちょっと読み飛ばしていたような箇所が、スッと頭に入ってくるような。

結果として原→現→原という汗を書くような読書となったわけですが、過去の日本文学などの本を味わう方法論としては、有効な手段の一つだと感じました。もちろん時間はかかります。ただ国内だからこそ、スムーズにいったと考えることもできます。

海外の本だったらどうしよう。

翻訳に関して印象に残っているのは、村上春樹・翻訳『グレート・ギャツビー』でご本人が、こんなような主旨を書いていたことです。

『グレート・ギャツビー』は自身の小説にも影響を与えた、人生のなかでも大切な本。自身の翻訳が完璧だとは思っていない。スコット・フィッツジェラルドがつくりあげた文章のリズム、文体は英語でしか味わえない点があり、英語の読み手としてもそれ相応のリテラシーを要する。

その意味では日本において本書は、正当な評価を受けてこなかった作品、ともいえる。だからこそ、すこしでもその魅力を伝えるべく、力の限りを尽くし、翻訳を手がけた。

その本の魅力を100%体感するためには、原著・原語で読むのがベストである。じゃあ、英語版をそのまま読んで“感じ取れるか”というと、これまたむずかしい。だからこそ、すこしでも著者の作品を追体験できる素敵なツールが現代語訳であり、翻訳なのだろうと思います。あらためて、それぞれ全面支持です。

で、『草迷宮』に戻すと、それでは当時の方たちは、スラスラ読めていたのか。当然、なかにはいて、しかも泉鏡花を同時代で読めたことはちょっと羨ましい。

逆にいえば、いま刊行されているような作品は、言うまでもなく過去の時代の人は読めず、読み手のベクトルは現代人に向いています(なかにはむずかしい作品もあるけど)。

そういえば映画『NO SMOKING』で細野晴臣さんが「ぼくは、つねに“いま”しかできない作品を世に出してきた」とおっしゃっていました。古典だけが正解なんてことはなく「いまの作品」を味わう幸せもあるでしょう。

というわけで以上です!

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