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テレビに関する本のスケッチ

テレビと芸について考えようとすると、どうしても歴史を辿り、人にフォーカスせざるを得ません。自分のなかのマストは萩本欽一、タモリ、たけし。 文献としては小林信彦氏に頼るしかない。

学生時代だったでしょうか、かなり前にメモしていたものを整理がてらクリップします。

ちなみに紹介する本はどれもおもしろいです。

小林信彦『笑学百科』

寺山修司といえばタモリの持ちネタと思われるようになったのは、状況設定のうまさである。もっと単純にいえば、いかにも、その人が言いそうなことを誇張して言う、という知的操作である。 その人が言いそうなことを、グロテスクに誇張して戯画化するーーこれが批評である。

小林信彦『テレビの黄金時代』

フジテレビが四月から始めた「お昼のゴールデンショー」で司会は前田武彦だが、55号は月曜から金曜まで、生でコントを演じた。萩本欽一は同じコントを二度やらないというポリシーの持ち主だから、毎日が新ネタ。これがどれほどすさまじいことか、想像がつくだろうか?

立川志らく『雨ん中の、らくだ』

「平成名物TVヨタロー」にて。番組の新しい趣向として立体落語も披露しました。これは四団体の落語家が全員雛壇に座って、台詞の割り当てをして複数で一席の落語を演じるというものです。「たがや」という落語をチョイスしました。落語をコント仕立てにしたコント落語なども披露しました。

小林信彦『日本の喜劇人』

萩本欽一の発想の基本はテレビ=ドキュメンタリー説である。浅間山荘事件や野球中継がなぜ視聴者を惹きつけるのかと彼は考えた。これは次の瞬間、何が起こるかわからないからではないか。「いまのテレビの視聴者はバカな人間がきらいなの」先の読めるドラマを好まない。
プロのモノマネより、タモリの文化人模写の方が面白い、と新聞に書いたらモノマネ業界のエラい人から強い講義を受けた。ひとことでいえばタモリは芸人としてはセミプロである。そのぶん常識的、紳士的で、愛すべきふつうの人だと思う。
深夜放送におけるたけしの視点のユニークさは、ツービート時代にはわからなかった彼のうっくつ、暗さ、悪口の底にある優しさを聴取者に伝えることであり、それによって大衆の圧倒的な支持を得た。

宇野常寛『リトルピープルの時代』

楽屋=ギョーカイをある程度みせることで消費者に発信者の側に立っているという感覚を与え、両者の間を撹乱する手法。大きな嘘を隠蔽するために小さな嘘を発覚させる

北野武『超思考』

「最近の芸人は、世間の人をなぜかやたらと素人とか一般人とか呼びたがる。まるで自分が素人でないと虚勢を張っているように聞こえて仕方ない。人に誇れる芸が何もないから虚勢を張る。滑稽を通り越して哀れだ。

玄人というのは、昔はむしろ自分を卑下する言葉だった。俺のお袋は、テレビなんかに出て人様の見せ物になる商売は恥さらしだと言っていた。それが普通の感覚だった。

小沢昭一『ものがたり芸能と社会』

「テレビは「ナマモノ」に限るのであります。それに、「ツクリモノ」「練りアゲモノ」より「本当モノ」、未熟だろうと「生地ノマンマノモノ」のほうがおもしろい」
「トーク番組のように、演技しない自分、私生活のままのような普通の自分で出るような番組では、ますます「地」がもろに出て恐ろしいですね」
「もっといえば、そういう出演者の気が緩む瞬間がテレビのつけめで…。そこからテレビカメラは人間の中身に侵入し、人間の事実を吸いとるのです」

『北野武による「たけし」』

「しばらくすると、テレビで漫才を演じるのは、決闘じゃなくてスポーツみたいになっていったんだけど。…想像を絶するほどのライバル意識がみなぎってたね。

笑わせようとしたところで、会場がシーンとしたり、掛け合いでしくじったりなんかしたら最後、もう来週はスタジオには来られない、番組から降板させられちゃうんだから。まさにボクシングのリングに立ってるような気持ちだったね。
「時の流れとともに、うすうす感づいてたことが起こった。落語は、昔っからテレビでも確固たる地位を占めてたけど、テレビの漫才ブームは、長くは続かなかった。漫才師としての依頼は少しずつ減っていって

以上です!

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