5 祖父の話③

 戦争体験を聞くのは難しい。困難すぎる話は自分の身に引き寄せて考えられない。「そういう時代だったのでしょう」「昔はみんな精神的に強かったのだ」と、ひとごととして聞いてしまう。

 ところで、子どもが安心できる環境でショッキングな物語(昔話など)を聞く事は出来事を客観視する練習になるという。
 また、「ストレスは、一度受けた後はいなしやすい」という傾向との合わせ技で、安心できる環境で困難の度合いの軽い話から重い話に徐々に慣らしていくことが、子どもに戦争体験を伝える際には必要なのかもしれない。

 ここまで考えて、祖父の「戦争体験語り」の順序を思い出した。

 ①幼少期
 「人との約束があったのに寝坊した朝、起きてズボンに片足を入れたら凄い衝撃があって街中が壊れたんだ。待ち合わせの場所に行ったら相手は亡くなっていたよ。人生の偶然によっておじいちゃんは生きて、あなたが生まれてきたんだね」
 子どもが自分とできごととのつながりを感じられるようにわかりやすく語ってくれた。
 (生き残った自分を孫の誕生と関連づけることで言祝いでいたのだなぁ、とも思うが、それについては別の機会に書こうと思う) 

 ②小学生頃
 祖父が同年輩の退役の方と会う場にお供したことがあった。祖父がお相手に話した内容は「爆発後司令部に行ったら建物は倒壊しており待ち合わせ相手と言葉を交わせたが助け出せず、やがて火がまわった。後に遺族に最期の様子を伝えた」と、より悲劇的だった。 

 ③中学生頃
 祖父母と映画「風が吹くとき」(1987年公開)を観に行った。
 老夫婦が弱っていく描写を祖父が「あれはなかなかよく(リアルに、の意)描かれているな」と評して、祖母が「そういうことを言わないでください」と嫌がった。なまなましい話をしたから嫌がったのではなく、突き放した(他人事のような)感想をのべたから嫌がった…のか?祖父は学者でもあったので悪趣味ととられる発言をすることが時々あった。

 ④祖父の没後
 戦後間もなくにまとめた手記が出てきた。下宿先から司令部に向かう途上で、被爆し変わり果てた市民に助けを求められるも何もできない無力感、自身の負傷と疲労などについて29歳の将校が赤裸々に綴っていた。

 なるほど、ひとつひとつの情報を分け、時間をかけて伝えてくれたおかげでゆっくり内面化してこれたようだ。どうやら自分は祖父に戦争体験談を受容する力(?)を鍛えられたらしい。
 ヒバクシャの会で語り部をしていた大叔母(祖母の妹)が「はだしのゲン」の公開に連れて行ってくれたり、その大叔母の家には写真集もあったので、ビジュアル面への耐性(こちらは完全に慣れ、もしくは麻痺だ)もできたのだと思う。

 あらためて並べてみて、自分の反応が人と違うのも道理と納得できた。
 はるか昔、修学旅行で長崎に行った際に私以外の班の女子高生全員が原爆資料館に行くことを大変に嫌がったが、自分は「行けというなら行きます」程度の抵抗感しかないのが不思議だったのだ。
 20代だった1995年に「行ける時に行っておこうか」とオフィシエンチムに行ったのもこの育ちあってのことと腑に落ちた(同じ環境で育った弟と同道できたことも大きかった)。当時暮らしていたベルギーでは「あれから50年」という先の戦争についての企画展が王立博物館等で開催されていて(アメリカ史観でもドイツ史観でもない切り口は興味深かった)、タイミングに後押しされたとも言える。訪ねて行ったワルソビ在住のポーランド人友人に「…なぜわざわざオフィシエンチムへ…?」と不思議に思われたことが懐かしい。

 「理解の変化」についてもう少し。
 小学生だったかの頃テレビドラマで富田靖子主演の
「Tomorrow-明日-」(井上光晴原作)を観て、突然「被爆した人は普通の人達だったのだ!」と理解した。日常が断ち切られてしまう市街地爆撃の残酷さを初めて認識できたのだ。
 それまで、祖父母が軍関係だったこともあり、どこかで「昔の特別な人達の話」と感じていたように思う。戦争の悲惨な被害状況だけを知るのではなく、それ以前のかけがえの無い日常と対比することで残酷さの本質が認識できるようになった。
 クラウドファンディングで公開されて話題になった「この世界の片隅に」も、同じ原理があっての評判だったのではないだろうか。

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