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戦争と平和 日本と香港~旧日本軍の足跡をたどる~西湾砲台跡編

英国植民地時代に建設された西湾砲台跡は、香港島北東部沿岸に近い西湾山の山頂にある。階段を登りきると、鯉魚門(レイユームン)海峡や対岸の将軍澳まで視界が一気に広がる。現在は砲座跡などを残しつつ、公園となっている。

西湾砲台跡から海を挟んで望む将軍澳エリア

1941年12月の太平洋戦争勃発を受け、旧日本軍が決行した香港攻略作戦では、日本軍からの砲撃や空襲にさらされた。41年12月18日夜、「左翼隊」として筲箕湾から上陸に成功した歩兵第229連隊の一部は、19日朝にかけて西湾砲台にも進攻、攻撃を開始し陥落させた。防衛庁防衛研修所(現防衛省防衛研究所)が編さんした「戦史叢書」の「香港・長沙作戦」には次の記述がある。

「・・・・・・第六中隊は上陸とともにニコ小隊を第一線とし、レームン砲台地域内を柴灣山に向かい攻撃前進した。その左小隊は真先に上陸するや、途中逃げまどう英兵を顧みず一気に高射砲陣地に殺到し、二二三〇突入した。中隊主力は柴灣山中腹の地下要塞に突入、これを撃破して高射砲陣地の周辺の英軍を掃蕩して柴灣山一帯を占領した。」(原文ママ、250ページ)

旧日本軍は西湾山を当時、「柴湾山」と呼んでいたようだ。午後10時30分に突入したと説明している。香港の歴史研究者、高添強さんによると、西湾山という名称は香港政府の公式地図に記述がなく、実は市民の通称にすぎない。西湾とは英軍が起源で、もともとは単に「柴湾」と呼ばれる場所だったという。「彼ら(英軍)は柴と西の区別がつかず、広東語の発音のChai(チャイ)がSai(サイ)となり、中国語表記で西になった」と高さんは指摘する。

一方、この西湾砲台への攻撃を巡っては、陥落後に捕虜となった英軍側の義勇軍の兵士が日本軍から虐殺されたと伝わっている。大半が混血の兵士で、中国人ではなかったという。

西湾砲台跡に残る掩体施設の一部(左)。山頂まではトレイルコースとして整備されている
日本軍の攻撃で残った弾痕
山頂の貯水池跡

西湾砲台は1890年代末期に「鯉魚門要塞」(香港島北東岸の鯉魚門一帯に集積していた英軍基地の総称)の一部として建設された。初期には沿岸防衛を目的とする大砲が設置されていたが、1920年代に防空用の施設に変更され、1930年代には香港で2カ所しかない高射砲陣地の一つとなった。これが日本軍の標的になる運命を決めたと言える。日本軍から受けた攻撃の弾痕を今でも複数個所で確認できる。

日本軍による香港占領期には、地下道が建設された。米英など連合国軍の反撃に備えるためだが、荒廃が進み、全体像はつかみづらい。戦後は、米国と旧ソ連の東西冷戦下の1950年代まで高射砲が置かれていたが、その後は英軍の訓練施設に転用され、1987年に香港政府に用地が返還された。

現在は砲台跡のある山頂までトレイルコースとして整備されているものの、最寄りの地下鉄駅やバス停から遠くアクセスしづらいせいか、いつ訪れても人がまばらな印象だ。それでも、戦局の行方が明確でないなかで、日本軍が香港島上陸作戦当日に進攻した場所の一つであること、日英両軍の死傷者はその後、日に日に増えていくが、「日本軍による一連の暴行の始まりとなった」と捉えている香港市民がいるということも、心に留めておきたい。

日本軍がつくった地下道の跡


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