見出し画像

戦争と平和 日本と香港~旧日本軍の足跡をたどる~城門陣地跡編② 


|英軍防衛線の戦略的核心として 


1941年(昭和16年)12月8日のアジア太平洋戦争開戦を受け、香港に侵攻した旧日本軍が最初に陥落させた城門陣地跡へは、新界地区・荃湾駅に近い兆和街からミニバスを利用するのが便利だ。終点の城門貯水池でミニバスを降り、アスファルト道を15分ほど歩くと、前方に小高い山が見え始める。そこが、城門陣地があった場所だ。

左手遠方に城門貯水池の天端道路と、第38師団歩兵第228連隊(連隊長・土井定七大佐)が夜襲の前、1941年12月9日昼に待機していたという針山が望める。同日午後11時過ぎ、小雨の降る中、奇襲攻撃を仕掛け陥落させるのだが、道中に一連のストーリーの舞台をまず目にすることになる。

城門貯水池の西側から撮影。中央手前が旧日本軍が夜襲前に待機していた針山だ。

バーベキュー場を過ぎ、人気トレイルコース「麥理浩径(マクリホーストレイル)」ステージ6の門をくぐると、城門陣地跡のエリアに入る。

城門陣地は1937年(昭和12年)の日中戦争勃発を受け、英国政府が1939〜41年にかけて建設した要塞だ。司令部が置かれた砲兵観測所やトーチカ(ピルボックス)、地下通路、塹壕、炊事場などで構成されている。金山の北側に位置し、九龍半島の市街地を取り囲むように英軍が東西に敷いた防衛線「酔酒湾防線(ジンドリンカーズライン)」の戦略的核心という位置付けだった。

一部の施設は日本軍が侵攻時に破壊、もしくは英軍が自ら破壊したのだが、土砂で埋もれた場所を除けば、香港内でも比較的保存状態が良いとされる。三和土(たたきつち=石灰や粘土、砂などを練り固めた素材)や鋼材が使われ、寸法など統一基準で設計されている。当時の英軍の土木技術水準の高さに驚かされる。

要塞全体は、司令部が置かれた砲兵観測所に「STRAND PALACE HOTEL(ストランド・パレス・ホテル)」、地下通路には「PICCADILLY(ピカデリー)」「REGENT PALACE HOTEL(リージェント・パレス・ホテル)」「CHARING CROSS(チャーリング・クロス)」「OXFORD STREET(オックスフォード・ストリート)」「SHAFTSBURY AVENUE(シャフツベリー・アベニュー)」といったように、実際に存在するロンドン中心部の主要道路や建物の名称が付けられているのが特徴だ。英軍側に英国籍やカナダ籍の兵士が多く覚えやすかったことや、郷里を思う気持ちからだったという。4カ所のトーチカにはそれぞれ400~403の番号が付けられている。

|消えゆく「占領」の文字

地下通路の入り口付近に残る「若林隊占領」の文字

石階段を登っていくと、山頂に近いシャフツベリー・アベニューの地下通路の入り口付近で、「若林隊占領」と掘り刻まれた縦書きの文字を確認できる。12月9日深夜の奇襲攻撃で主導的役割を果たした第228連隊第3大隊第10中隊長だった若林東一中尉(当時、のち大尉)が軍刀で刻んだものだという。だが、その文字も年々不鮮明になっている。

また、オックスフォード・ストリートの壁では、墨汁で書かれた「昭和十六年十二月九日 西山部隊占領」の文字をわずかに確認できる(第3大隊を率いていたのは西山遼少佐=大隊長)。「香港之海防歴史與軍事遺跡」(蕭国健著 2006年出版)によると、蕭氏の執筆時点では「昭和十六年十二月九日西山部隊春日隊占領」まで書かれていたという。「春日隊」の文字は、今は消えてしまったようだ。

「昭和十六年十二月九日 西山部隊占領」と筆で書かれた文字をかすかに確認できる

このほか、トーチカ番号400と401に分かれるT字路付近では「春××占×」と、墨汁で書かれたような文字がかすかに残る。香港の戦跡に詳しい専門家は、同じく夜襲に加わった、歩兵第228連隊第3大隊の第9中隊長だった春日井由太郎中尉が残したものとの推察を筆者に示した。しかし今のところ確証は持てない。西山少佐が残したとされる文字も、実際は「春日隊」ではなく「春日井隊」だった可能性もある。

これらの文字を含めた戦争遺構の保存や管理について、城門陣地跡を含む郊外公園を管轄する香港政府漁農自然護理署にメールで質問したところ、同署の担当者は「職員を派遣して調査したが、文字を発見できなかった」と回答。さらに「関連の記録はない」と説明し、戦跡の現状把握ができていないことを暗に認めた。一方で、「(城門陣地跡は)既に二級歴史建築物に指定されている」とし、今後の保存方法に関し、関係部門と既に話し合いを始めていると補足した。

日本軍の城門陣地への夜襲を巡っては、陥落までたった数時間だったとはいえ、日英両軍に死傷者が出ている。「探検」として訪れる人も少なくないが、命を賭して戦った兵士たちがいたことを忘れてはならない。なお、歩兵第228連隊は香港攻略後、アンボン島(オランダ領東インド)やガダルカナル島の戦いなどに加わる。若林中尉はガ島の戦いで戦死している。

※見出しの写真は、司令部が置かれた砲兵観測所跡。日本軍から投げ込まれたとみられる手榴弾の弾痕が生々しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?