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13年前の今日

あの日私は病院にいた。
持病があるので、月に一度の血液検査を受けるためである。

午後の診察の始まる前に、受付を済ませて待合室にいた。

すでに十数人の人が待合室で診察が始まるのを待っていた。

壁に設置してあるモニターでは、国会中継が流れていた。

その時だった、激しい揺れがおきて、座っていても体が大きく左右に動くほどだった。

待合室にいた人が数人立ち上がり、外へ出ようとしたが、自動ドアが勝手に閉じたり開いたりして危ないと思ったのか、建物の中に留まった。

病院は鉄筋コンクリートでかなり強度の高いと思われる太い柱が待合室の中にもあるので、この建物が崩れることはないと思って私もそこから動かなかった。

しかし揺れがおさまるまでの時間がとてつもなく長く感じた。
外を見ると、停めてある車も揺れているし、民家のブロック塀の上に並んでいたプランターが落ちる瞬間も見た。

揺れがおさまると、診察を受けずに帰宅すると言う人たちがいて、私も同じく採血を取りやめて家に帰ることにした。

受付の人も、もしかしたら検査機関に送れないかも知れないから、延期した方が良いと言われたからだ。

テレビでは宮城震度7の文字が見えた。

病院から自宅までは車で30分ほど。

国道6号線に出ると、車は普通に走っていた。

自宅へ帰るため、右折車線で止まっていた時だった。
また大きな揺れが起きた。

車が激しく揺れて、信号機も揺れている。
折れて倒れるのではないかと思うほどだ。

怖くてハンドルにしがみついた。
交差点に止まる車は、皆動かなかった。

1分ほどだっただろうか。
揺れが小さくなり、ほかの車が走り出すので、私も右折をして自宅に向かった。

まっすぐ家に帰る前に、コンビニに寄ることにした。

きっと家の中も大変なことになっているだろうし、夕飯を作る気にもならなかったので食料と飲料を調達しようとしたのだ。

家の近くのコンビニに入ると、店内はさほど乱れていなかったので、うちも大丈夫かも?と思った。

カップ麺や飲料水などを購入して戻った。

ここまでに1時間ほどしか経っていないのだが、この間に家族との連絡はすでに取れなくなっていた。

最初の揺れの直後にメールを送ったが返信はなく、電話もつながらない状態になった。

自宅の駐車場に車を停めて、玄関までの数メートルのアプローチを歩く間にも、近隣の住宅のガラス窓がガタガタと鳴る。

何度も何度も余震が起きているのがわかる。

家に入ると、予想していたよりもひどい状態ではなかった。

しかしタンスの引き出しがほとんど出ていて、固定されていなかった家具の扉が開いて中の物が散乱していた。

トイレや洗面所では、上部の棚に収納しているタオル、ペーパーや洗剤類が落ちていた。

二階にあがると、一階よりもひどかった。

ベッドサイドの照明が落ち、液晶テレビが倒れていた。
クイーンサイズのベッドは、壁から10センチ以上移動していた。

もしも病院に行く日ではなく、自宅に一人で居たときだったら、恐ろしくて外に飛び出しただろう。

幸いにも窓ガラスも割れておらず、家屋の損壊はなかった。

テレビをつけると、津波警報と避難を呼びかける声がずっと続いている。

その日、私は独りぼっちで夜を過ごした。

家族は建築の仕事をしていて、その時は都内の現場だった。

車で行っているが、ニュースを見ると都内は激しい渋滞が起きているので、帰宅できるかどうかわからない。

何しろ連絡がつかないのだ。

かろうじてTwitterは使えるのだが、TwitterのDMを送っても音沙汰がない。

2010年が終わるころに愛知県から千葉県に来た私は、まだ数か月しか暮らしていない家で地震と孤独の恐怖に耐えながら夜を迎えたのだ。

知り合いもいない、近くに頼れる人は誰一人いない。
心細くてマジで泣いた。

深夜になって、実家の母からの電話がつながった。
何時間もずっと電話をかけ続けていたようで、つながった瞬間に母は泣いていた。
私もその泣き声を聞いて泣いた。
話している間にも余震が起きて、「また揺れている、怖いよ」というと、母は中年になっている娘なのに「お母さんが今すぐ迎えに行ってあげるから、それまで待ってなさい」と・・。
そんなことできるわけないのに、今まで近くで暮らしていたのに、遠くに行って間もなくこんな大災害が起きるなんて、母もパニックだったのだと思う。

とりあえず、家族が戻るまで一人で家にいるしかない私のことを心配して何時間でも電話を切りそうにない母だったので、もしかしたら電話がかかってくるかもしれないからと言い聞かせて電話を終えた。

家族はやはり渋滞に巻き込まれ、しかも燃料が切れそうだったため都内の駐車場に車を置いて、何時間も歩いて帰ってきた。

家に着いたのは朝の7時だった。

その日からの数週間の記憶は、いろいろと鮮明に残っているが、たった一人の家族以外に知り合いも誰もいない土地で暮らし始めたばかりの私にとって、官房長官として現状を伝える枝野幸男さんが心のよりどころだった。

もともとなんとなく民主党支持だったし、2009年の政権交代が実現したときには心が躍った。

しかし枝野幸男さんに対して、そこまで強い印象がなかったのだ。

防災服で記者の質問に答える声と姿が私の脳裏に焼き付いた。

それが今の私の原点だと思う。

あれから13年経ちました。

今は立憲民主党の支持者として、枝野幸男さんを支える小さな礎になりたい。


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