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お遍路ウォーキング日記(68:三十番善楽寺へ ③)

【2024年3月12日(火曜日) Day 68】

 今日は雨天のため外に出られずウォーキングもできなかった。自分はノルディックポールをついて歩くため雨が降ると傘もさせない。ポールを両手に持つのは脚ではなくて腰が悪いからで、ポールなしで歩くとものの数分で腰がしんどくなり最後は歩けなくなる。去年の入院中はポールなし歩行訓練も試みたがせいぜい持続できて500mくらいまででそれ以上は杖がないと歩けない。現在直面している大きな問題の一つがこれだ。

 逆にノルディックポールがあれば持続的なウォーキングもできる。それだけノルディックウォーキングは腰への負担を軽減させてくれる。

 さて、そんなわけで今日は家の中にいたので歩数の記録は0歩だ。

 今日は昨日も少し書いた土佐神社と善楽寺について書きたいと思う。

 他の札所とは違い善楽寺はこの土佐神社の別当寺として弘法によって開創された二つの寺のうちの一つだった。善楽寺という名前は江戸の頃に付けられ、それ以前は長命寺、さらに昔は観音院と呼ばれていた。またもう一つの別当寺は神宮寺と呼ばれていた。

 当時は神仏習合の時代でもあり、四国八十八箇所の札所には数カ所神社も含まれていた。神宮寺は本尊が阿弥陀如来、善楽寺は正一位高賀茂神社とそれぞれのご朱印を持ち二つの札所三十番がこの頃にはあった。

 この二つの札所三十番というのは記憶されている方もいるかと思うが、平成に入ってからも別の理由で二つの札所三十番が存在していた。

 話を元に戻すがたいていの札所で次に大きな変化が起こるのは明治に入ってからの「神仏分離しんぶつぶんり」とそれに伴い全国で起こった「廃仏毀釈はいぶつきしゃく」というムーブメントだ。

 要するに国の宗教は神道と法律で決め、仏教と神道は徹底的に分離させることが法律で定められた。これが「神仏分離」。その後一つの国に二つの宗教は必要ない、国の宗教は神道ならもう一つの仏教は追い出すべきであると言って仏教寺院を廃寺にしたり、乱暴な地域では本尊を破壊するなどと言った動きが全国的に広まっていった。これが「廃仏毀釈」というもの。

 札所三十番は善楽寺も神宮寺もこの神仏分離と廃仏毀釈には翻弄された歴史がある。

 まずは土佐神社から生まれた二つの寺を廃寺にさせるべく神宮寺は善楽寺に統合させられる。仁王像は札所二十四番最御崎ほつみさき寺に移され、本尊の阿弥陀如来と善楽寺にあった弘法大師像は隣の土佐国分寺へ移された上で廃寺にされている。この後土佐国分寺が札所二十九番と三十番の二つの札所の役割をしていた。

 やがて土佐神社よりも西、高知市のさらに中心に近い場所に同じように廃寺にされていた安楽寺が再興を果たし、土佐国分寺に移されていた本尊の阿弥陀如来像が移されて正式に札所三十番となった。ここまでが明治初期の話。それから平成六年に善楽寺が今の札所となるまでにはまだ少し話があるのだが、今日はここでおしまいにして続きはまた明日以降にしたいと思う■

 


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