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お遍路ウォーキング日記(124:四十番観自在寺へ ⑥)

【2024年5月8日(水曜日) Day 124】

 ついに越境をして愛媛県に入った。これで高知県とは完全におさらばだ。もう高知県内に入ることもない。四国八十八ヶ所巡礼をしていると同じ場所には二度とは戻らない(一部の打戻りを除き)ものだ。宿もそうだし札所だってそう。基本は一期一会になるような順路を辿る。

 その反面同じ方向へと向かう遍路とはずっと一緒になったり、札所毎に再会をすることも多い。そしてそれは当然だが順打ちをしているときに多く、数日にわたり札所でバッタリなんて事は珍しくない。そうするとひと言ふた言会話が生まれ、やがては仲良くなると言うこともある。

 一方逆打ち(八十八番から札所を打つこと)をするとそんな同行者もおらず、本当に何もかもが一期一会になってしまう。その分孤独だと感じることも多い。

 この逆打ちについてはいずれしっかり書いておこうと思う。同じ巡礼旅でも順番通りに回るか、反対に回るかで大きく違ってくる。

 それはまるで朝登校をするときに校門の前でお弁当を忘れたことに気がつき引き返してみんなとは正反対の方向に歩く、あんな感じだ。

 何はともあれ今日から愛媛県に入る。四国巡礼では各国を道場と呼び、阿波は発心の道場、土佐は修行の道場と呼ばれるが伊予は「菩提の道場」と呼ばれている。

 これはひとつ前の土佐が札所の間も離れていてしかも道程も遠くまさに修行の如くしんどい目に遭うのでそれが終わるといよいよ菩提の時期に入る事から「菩提の道場」と呼ばれている。

 そもそも菩提という言葉は短い単語なのに意味となると薄ぼんやりとしていてわかりにくい。なので比較的わかりやすい「修行」の後と考えればそれはもう「悟り」のことを言うのではないかと思う。

 発心をして修行を経てその次にあるものは悟り。この菩提のない状態はまだ修行の段階だと考えれば菩提はその先のことだとわかる。そして四つ目、讃岐国にも同じような呼ばれ方があるのだが、それはまた
香川県に入ったら、札所で言えば六十六番の雲辺寺と六十七番の大興寺の間で越境があるのでその時に(忘れていなければ)改めて書くことにする。

 ただ八十八ヶ寺中まだ三十九しか札所を打ってないのにもう悟り開いちゃっていいのかなとかなり不安になると思う。

 伊予の「菩提の道場」とは土佐ほど各札所の間は開かなくなり、道程も険しくはなくなってきてこのあたりまで来ると途中で辞めてしまう人がいなくなる。つまり巡礼の辛さをひと通り知るからだという説もある。それも後半、松山に入ったあたりから急激に感じてくるのではないだろうか。少なくとも四十番から四十一番の間は長距離だし、四十二番から四十三番の間には遍路ころがしと呼ばれる険しい道が、また四十三番から四十四番の間の距離は四国八十八ヶ所中三番目に長距離だ。

 しかしその後は徐々に楽に感じてきて、次にしんどい目に遭うのは六十番までない。

 この実際の行程の難易度が己の修行の成果と重なるところも四国八十八ヶ所巡礼(の順打ち)の面白みでもあるのかも知れない。

 さらにこれは歩きではなく、自転車でもバイクでも車でも相対的に感じ方が似て来るものだと思う。

 今日は具体的な話は避けておいたがそれも徐々に書いていくことだと思う。あまり先のことを事細かく書いてしまったらそれこそネタバレのようなものだ■

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