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療養日記 2022年3月11日 『11年』

 今日は東日本大震災から11年経った震災記念の日。

 11年前、職場は本牧にあった。丁度年度末試験も終わり成績を入力していたときだ。地震なんてものはいつでも突然。僕はあまり地震にはひるまず、またいつものようにしばらく揺れたら収まるだろうとしか考えていなかったし、もし揺れがひどいようなら避難しようすると揺れに注意をしながら一向にPCの前からは離れようとしなかった。職員室の中では異様なほど地震を気にする人からこの人感じてないんじゃないのと思うほど微動だにせず仕事をしている人まで色んな人がいた。廊下で生徒が騒いでいた。

 これはただ事ではないと思ったのは停電が始まったとき。まず廊下の電気が消え、そのすぐ後に自分が操作していたPCが消えた。これはただ事ではないと職員室を飛び出すとまずは建物の中にいた生徒に校庭に逃げるように指示。

 この日はつい先日卒業したばかりの悪ガキどもが呼びもしないのに遊びにやってきて当該学年の先生達が数名その応対に出ていた。外から怒号が聞こえてきた。その時の職場はそんなろくでもない職場でもあった。

 校庭に出ると招かれざる客どもは一箇所に固まって腰を抜かしていた。やって来たときの権勢もどこへ行ったのやら、全員がビビっていた。僕も正直歩くことさえままならない状態に腰が抜けそうだった。校庭の向こうにある港湾地域では至る所から煙が上がっている。どこか一箇所でも爆発したらその影響が直にやって来るくらいの場所に職場はあった。それが本牧という場所だ。

 一度生徒達を全員校庭に避難させてから校内巡視に入る。最上階から根岸の方角を見るとあちこちから火の手が上がっているのが見えた。今回ばかりはただ事じゃないことがわかった。

 校庭に戻ると部活中だった生徒は全員避難が終わっていた。受け持ちクラスの一年生の生徒の一人がいつもであればふてぶてしい態度で接してくるところ、とてもしおらしくなってボソリと言った。

 「俺のばあちゃん、岩手の海沿に住んでるんです。」

 その時には校庭で避難をしている生徒も震源地が三陸沖だと言うことは伝わっていたらしい。

 「三陸ってこと?宮古?久慈?それとも釜石?」

 「山田です、先生知ってます?」

 「ああ知ってる。山田は心配だな。でもあそこ入江が深いから避難ちゃんとしていれば心配ないだろう。ばあちゃんはずっと住んでるんだろ、なら絶対避難しているはずだ、心配いらない。」

 そう言って慰めるのが精一杯だった。三陸の人は地震にはとにかく敏感ですぐに避難をするというのは学生の頃三陸で住み込みで働いていたことがあり、その時にも地震を経験しているので良く知っていた。それを思い出してきっと避難をしているはずだと言うことができた。

 少しだけ安心したのか普段なら言うことなど全然聞かないその生徒もその時ばかりは指示通りに校庭で大人しく待機していた。やがて避難した生徒も落ち着きを取り戻し校内の安全も確保できると地域毎のブロックに分かれてそれぞれ職員同伴で集団下校をさせる。保護者が迎えに来るまで預かりの今とは下校の方法も違っていたが、そもそも今の下校の方針はこの東日本大震災があって変更になったものだ。僕も上履きのまま担当地区まで10数人の生徒を誘導して下校させた。

 地震発生直後からの情報源はその時に使っていた携帯だった。他の職員と違いその時持っていた携帯はPHSと携帯のハイブリッド端末だった。これが大いに役に立った。すでに使い物にならなかった3G以外にもPHS回線が使えたので電話も繋がった。特に外でもインターネットで情報が得られたのは心強かった。

 職場は地域の避難拠点ではなかったので全職員5時定刻で強制的に退勤しそれぞれが以後自宅待機するように言われた。しかし帰宅するのも各自の責任で帰らねばならなかった。たまたま自分が住んでいる方面に帰る人が多かったので車で出勤していた人の車に乗せてもらい自宅の最寄りの駅までは帰れた。そこから先は4キロ程の道を歩いて帰らねばならなかったが、公共交通機関もすべて停止し道路も渋滞している中で帰宅ができただけでもありがたい。

 家に帰るとまずはわんこの無事を確認し、妻からの連絡を待つことにした。こういう時にテレビではなくラジオを真っ先につけるクセがある。テレビでは情報が過剰すぎてこんなときはラジオくらいにしておいた方が良いのかも知れない。テレビは却って混乱を招く。

 妻から連絡があったのはかなり遅くなってからの話。なんとか相鉄線でゆめが丘駅までは帰れそうなので迎えに行くことに。ゆめが丘駅まで向かう車の中でラジオを聴いていたがその時に福島の原発が制御不能の状態に陥っているというニュースを初めて聞いた。まさか原発ってそんなに簡単に制御不能になるのかと呆れていたがまだその時は事態がよくわからず、早いとこどうにかしてくれよとくらいにしか思っていなかった。事態が最悪のシナリオを辿っていると解ったのはその次の日の事だった。

 大津波が押し寄せ、連絡の途絶えた地域が多数あること、今日の地震はただならぬ事、かつての関東大震災以上の最悪な地震だったこと、そんなことばかりが伝わってきて、その時はまだそれだけでは済まないなんて考えもしなかった。それだけでももう十分に最悪な事態だった。

 妻は当時新横浜にある会社に通勤していた。地震直後に業務を停止し全員退勤して公共交通機関が麻痺している中を歩いて二俣川まで歩き、そこで漸く一時的に運行再開をしていた相鉄いずみ野線でゆめが丘駅まで帰って来られた。同僚の中には帰宅困難者になった者もいたらしいその晩、妻は何とか家まで帰り着くことができた。

 そんな大地震の日から11年。長いようで、本当に長い。僕はもともと過ぎた時間をあっという間だの短いなんて感じられない性格。11年がいつでもとてつもなく長く感じられる。そのとてつもなく長い時間のその他のことなんてあれこれ忘れちゃっても今日のことはまだ忘れずに覚えている。

 あの日に起きた不幸なことはできたら地震とそれが直接引き起こした津波だけにしてもらいたかった。それでも十分すぎた。その先はまさに人災と言ってもいい悲劇が伴う。それはできたらナシにしてもらいたかった。なんとか回避してもらいたかった。あれは人災だと今でも思っている。そしてそんな人災が11年過ぎた今になっても、今後もずっとより一層重くて暗い影を落とし続けるのだと思う。大地震がありこんな結果になりましたでは済まされない。これから未来永劫東京電力は責任を負わなければならない。

 そして11年が過ぎた今、遠い国で再びいくらでも回避できるはずの重大な事故が今度は人為的に引き起こされようとしている。人類はなんて愚かなのだろうと心底恐ろしくてたまらない。どうかもうこんな馬鹿げたことは福島を最後にしてもらいたい。

 11年前、週が明けた月曜日は通常業務だった。校庭で避難をしていた時に話しかけてきた例の生徒がやって来て、

 「先生、ばあちゃん無事だった。地震の後すぐに避難してたよ。」

 と真っ先に報告してくれた事がせめてもの救いだった⬛︎


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