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「『カルマの法則』って真実なんでしょうか?」こんな質問を受けたことがあります。結論から言うと、真実です。ただし、「カルマの法則」は、神の恩寵により、その効力をなくすことも可能です。
シヴァナンダヨガの先生方は、TTC(講師養成コース)の講義でカルマの法則について学んだので、「カルマの法則」が無慈悲で、この世のどんなものでも破壊することができない鎖であることはご存知でしょう。カルマの法則とは、善行善果、悪行悪果の法則。つまり、善いことをすれば善いことが返ってきて、悪いことをすれば悪いことが返ってくることを意味します。
「カルマ」は、通常は「行動」や「仕事」を意味します。例えば、カルマ・ヨーガとは、神聖な「行動」や「仕事」を神に捧げることによって、神とひとつになるヨガの道を意味します。また、カルマは、「行動」よりも、その行動に携わる本人の運命をも意味します。

ここでひとつ、注意しなければならない点があります。カルマの法則は、それを体験する本人に起因するものですが、実はその本人の家族や親族や先祖のカルマを身代わりに背負っている場合も多々あります。例えば、借金を背負ったまま本人が亡くなったとします。その後はどうなるか。そう、家族が代わって本人の借金を払わなければなりません。これが負の遺産です。このようなマイナス的な相続のような、カルマも実際に存在します。また、徳の積み上げという素晴らしいカルマも背負うこともあります。ご先祖や親族や家族が徳を積まれたので、そのおこぼれを同じ血を引く本人も恩恵にあずかっているというわけです。

家族や親族が実際に、どれ位の割合やどれ程の重いカルマを背負うのかを決定するのは、神様ご自身です。ただし、カルマの法則は100%無慈悲ですが、カルマの法則を壊すことが可能です、それは神様だけしかできないことですが。だから、シヴァナンダヨガTTC(講師養成コース)やシヴァナンダヨガのアーシュラム、シヴァナンダセンターでも、カルマヨガを重視するのはそのためなのです。無私の奉仕を神様に捧げることで、これまで積み上げてきた悪いカルマの報いを解消して頂き、礼拝までに高められていくからです。

そうした無私の奉仕を神様に捧げていくごとに、その人の魂から不純物が除去されていき、本来そうであった神性原理とひとつになることができます。そこにはカルマのような運命的な力や強制力は一切なくなります。
カルマの法則には、霊的にもっと深遠な意味が含まれています。本人やその家族や親族や先祖の魂の行為が原因ではない、ありえない事件や出来事がふりかかることがあります。こういう場合、たいていは人生の危機やすべてを失うような苦境がほとんどです。実は、これは「カルマの法則」ではなく、「神の恩寵」なのです。

この世的な言葉で表現すると、「神様は苦しみといっしょに、それを乗り越える力も与えてくれる」ということが近いかもしれません。バガヴァッド・ギーターを含む、インドの2大叙事詩であるマハーバーラタや、シュリーマド・バーガヴァタムといった聖典を読んだことがある方はある場面を想い出すことでしょう。

パーンダヴァ5兄弟の1人である弓の名手アルジュナが、猟師に扮したシヴァ神からすべての武器を破壊されてプライドを打ち砕かれ、血を吐くほど殴られ瀕死の状態になったことがあります。しかし、アルジュナはこんな艱難苦難の状況でさえも戦い続け、身体が動けなくなっても心をいつも強く持ち決して折れずに、神に一点集中していました。そのときにアルジュナが心の中で祈った言葉は真理そのものでした。「この目の前にいる猟師は、神様、あなたご自身です。私のエゴや欲望を打ち砕くために、あなたが別の姿となった顕しているのです。」アルジュナの真理が、想いと言葉と行動に純粋に染み渡ったとき、凶暴な猟師は姿を消し、そこにはシヴァ神とパールヴァティ女神が、「恐れるな!」と印をあらわして祝福し立っていたのでした。

これが意味することは、「カルマの法則」よりもはるかに超越する、「神の恩寵」というものが存在していることです。人間として生きているうちは、カルマは避けられないことです。それが、わざとやったことであっても、気づかずにした過ちであったとしても、本人に返ってくることは間違えありません。しかし、すべての行動を神に捧げることで、その行為の報いは神様が受けることになり、本人はその報いはまったく受けなくなります。これは真実です。

愛と優しさをいっぱいありがとうございます!