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2021年の夏に《まさゆめ》を見た


 最初の《まさゆめ》が上がった7月16日、東京は梅雨明けを迎えた。早朝と夜の2回。高く浮上はできなかったが、真っ暗な代々木の森の中、バーナーの燃焼に合わせてぽ、ぽ、と光る顔をみんなで見守った。
 二度目の《まさゆめ》は8月13日、本州を雨雲が覆った週に上がった。それまで続いた真夏日から一転した肌寒い朝で、ひんやりとした小雨の明け方、浮上への挑戦が始まった。
 まさゆめは静かだった。音もなく上がっていき、時折バーナーがコーッと火を吹いて、その音と音のあいだに静寂があった。人々が眠りから覚める頃、細かい雨と雲が包む矛盾だらけの東京の空にまさゆめは静かに浮かんでいた。

 2回の《まさゆめ》のあいだ、東京ではオリンピックが開催され、コロナウィルスの感染者は増え続けていた。オリンピック・パラリンピックが開催される東京を文化の面から盛り上げ、その魅力を伝える『Tokyo Tokyo FESTIVAL』。東京都とアーツカウンシル東京によって共同開催されているこの取り組みは、スペシャル13と総称される公募の中から選ばれた13の企画が中核となっており、《まさゆめ》もそのプロジェクトのうちのひとつ。現代アートチーム目〔mé〕による作品で、アーティスト・荒神明香さんが中学生の時に見た夢が元となっている。『東京の空に巨大な顔が上がる』という荒唐無稽な作品を、いちファンとして、また取材者という立場からも楽しみにしていた。
 2019年には顔収集ワークショップと顔会議に参加した。顔に応募したことで、もしかしたら自分や友達が上がるのかもしれない…という不思議な期待が発生し、それは予定から一年延期された浮上当日まで静かに続いてた。コロナウィルス感染拡大防止の点から、浮上の日時や場所の事前告知なしで唐突に上げるという実行方法になった。私は取材者として事前に実施スケジュールを知っていたので、厳密には公正なる鑑賞者とは言えない立場で2回の《まさゆめ》を見た。

 コロナが発生しなかった”パラレルワールド”の2020年の東京で《まさゆめ》が実施されていたら、この作品はどのように迎えられていただろうか。東京は世界各国からの旅行者で溢れ、原宿で、浅草で、色々な国の人々のカメラに収められた巨大な顔。目撃者が目撃者を呼んでネットで拡散されて、オリンピックの祝祭ムードの中、世界中から喜びをもって歓迎される…というイメージが浮かんだ。きっと主催者側もそのような状況を予想していたのではないかと思う。

 2020年よりずっと深刻な状況となった今年の東京で、(なぜか)オリンピックが開催された。
本当にやるの?という困惑と憤りの中、有無を言わさずオリンピックが始まり、終わり、パラリンピックが始まった。いつ収束するか見えないまま状況は悪くなり続けている。オリンピックを中止していたら感染状況がどう違っていたのかはわからないが、社会の雰囲気は確実に違っていたと思う。オリンピック中止にしなきゃダメなんじゃないの…と思いながら、まさゆめのことを楽しみにしている自分に後ろめたさがあった。もちろんプロジェクトの意図も規模も全く違うけれど、公共の場で発表すること、東京都が主催の一部であることから全く切り離しては考えられなかった。「オリンピックはダメだけどまさゆめはいい、だって人を集めないように配慮して実施するらしいし、オリンピックみたいに利権が絡んでる事業じゃないし、アートだし、オリンピックと比べたら影響は少ないんだから…」と自分を納得させようと思えば思うほど、作品を狭小化するような失礼な目線になっていた。「アートだからいい」ってなんだ、思考停止か。馬鹿か。いや、こんな風に考えるのって大げさすぎるのか。作品だけを楽しめばいいじゃない。でも……と思考はいつも矛盾したまま堂々巡りだった。

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 そして1回目のまさゆめが上がった7月16日、早朝のプレス発表会のあとに朝食を食べようと入ったレストランの窓から巨大な顔が見えた瞬間、私は爆笑していた。
予想以上に意味がわからん!!!
すでに別の場所から見ていたのにもかかわらず、ビルの窓から視界に飛び込んできたまさゆめは、堂々巡りする気持ちをなぎ倒して圧倒的に意味がわからなかった。顔、見ました?! と思わず店員さんに声をかける。原宿の街の向こうに見える顔と向かい合い、ニマニマしながら食事をしているうちに顔はするすると下がっていった。浮上現場の代々木公園に行ってみると、気温が高くなりすぎてしばらくは上げられないという。同行の友人と一旦解散し、また夕方現地で集まることにした。

 17時を過ぎてもまさゆめは上がる気配がなかった。朝の発表会から1半日近く、仕事場に寄ったりしながらずっと街の中を移動していて、今後のための取材という大義名分があるものの、不要不急の外出との線引きがだいぶ曖昧だと感じていた。カフェで次の浮上を待ちながら、自分自身が市中感染を拡げる一構成員になっていることに気づいて、気づかなかったことにする。
 陽が落ちて、これからどうにか上がりそうという連絡をもらった。現場の様子をYouTubeのコメントで実況している人がいる。夕闇の中で顔が膨らませられていく。人がどんどん増えていく。顔が顔になって浮き上がった瞬間、自分の心臓が一緒に浮上したように感じて、思わず叫んでいた。感情になる前のよくわからないものが自分の中で生まれて外に出たがっている。代々木の森の中に現れた巨大な顔は、ただ顔として背景と一切調和せずそこにあって、世界が顔と私だけになる瞬間があった。そうして見ているうちに、あれ、これって自分の顔だったっけ…?と思えてくる。嘘みたいだけれど自分の顔が今目の前で浮かんでいるように見えてくるのだ。バーナーの炎が上がるたびに顔は明るく光り、風で揺らぐとまばたきしているように見えた。
顔が私を見て、私が顔を見る。神様でもなく、怪物でもなく、美しいとか好ましいとか意地悪そうとか優しそうとか、そういう感情から切り離されて浮かぶ、ただの巨大な顔。
間近で見るまさゆめに圧倒されて、胸がいっぱいになって周りを見渡すと、たくさんの人が園内に集まって同じように見上げていた。怖いと思った。自分の体の、今まで顔を見上げていた側はまだ熱く、人の集団に面している側が一瞬で冷えていくような感覚だった。人が密集している状況が、もうすっかり恐ろしい。自分がそのひとりなのにもかかわらず。

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 二度目のまさゆめは明け方から現地に向かい、浮上作業の最初から最後までを見ることができた。畳んであった顔に空気を送って膨らませ、顔の形になったらバーナーで熱を送り込み浮上させる。20人近くのスタッフがそれぞれ分業し、指揮に合わせて顔を引き起こしたりロープで調整したりしている。まさゆめってスポーツみたいだと思った。スポーツがまさゆめみたい、とも言える。どちらも意味のないことを全力でやっている。

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 スポーツってなんなんだろうと、子供の頃からずっと思っていた。豹に追いかけられている!とかの逼迫した状況でもないのに、わざわざ走る意味がわからなかった。走ったり飛んだり球を板や棒で打って嬉しい悔しい楽しいというのがよくわからなかった。勝負が好きなのかと思っていたらスポーツは勝ち負けではないとか言い出すし。勝敗とそこに発生するドラマ性、感動とか勇気とか頑張る尊さみたいな近代的な価値観を乗せられて、グロテスクなまでに善きものとされている現代スポーツ。芸術とは対極に位置しているようにも思えるけれど、高いところの棒を飛び越えたい気持ちと空に巨大な顔を上げて見てみたい気持ちって、もしかしたら根源は近いんじゃないか。早朝の隅田公園に、現場を指揮する女性の力強い掛け声が響く。

「あがりまーす、上がるよ!」

人間の大元にある「意味のないことを極限までやりたい」という欲望の成就を見ているようで、代々木の朝とも夜とも違った感動が迫ってきた。

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 まだ始発前の時間帯で人も少なかったので、街を歩いていろいろな場所から見てみた。公園のまわりには潰した空き缶がぎっしり詰まった大きなビニール袋がいくつもある。上がった顔の写真を撮ることに夢中になっていて、だいぶ経ってから公園で生活している人たちに気づいた。その前日、生活保護受給者やホームレスの人たちへの差別的な発言をした人物のことがSNSで話題になった。その時は憤ったのに、実際に公園で暮らす人とすれ違っても、まさゆめに気を取られて彼らを気に留めない自分がいた。


 7月29日に、《まさゆめ》のアーティスト・ステートメントが発表された。これまで公開期間中に自身の作品について語るということがほぼ無いアーティストだったこともあり、私には唐突なメッセージに感じられた。その中には「私たちは、オリンピック・パラリンピックやそれに関連する事象について、賛成や反対を表明することによって関わるつもりはなく、同時代における芸術活動として、作品を通してより深くコミットすることに挑戦しています。」という一文がある。これをどのように解釈するか。オリンピックの少し前あたりから、開催に賛成していたら(さらに言うなら反対と表明しなければ)現政権の支持者だと決められてしまうような、白と黒しかないような極端で乱暴な空気があったように思う。その中で発信する「賛成とも反対とも言いません」というメッセージは、安全な立場から芸術だけをやっていますという尊大な印象を与えかねない。私は、ステートメントを出す必要ってあったのかな?と思っている。目というアーティストの意図がどうであれ、コロナ禍の中で《まさゆめ》を発表している時点で、すでに社会的な作品になっていると感じたからだ。
 まさゆめを間近で見たいと公園に集まって、そこで密集してしまうことに恐怖を感じている矛盾。空き缶を集めて生活する人がいて、わざわざそこへ来て空に上がった顔を見て浮かれている自分。「顔が上がってるって聞いて急いで来たの」と言うご近所のおばあさんと、もっと話したかったけれど近寄るのを躊躇してしまったこと。死者や重症者が多く出る疫病の最中に、自分が好きな芸術作品だけは実現してほしいという勝手。もうずっと、ずっと矛盾している。矛盾だらけの自分が、今どんな社会で生きているのかということを考え続けていた。
 《まさゆめ》は、人をびっくりさせる荒唐無稽なだけの表現ではなかった。自分の薄情さや身勝手、社会とこの世界が持つ矛盾と地続きの、はっきりと重い質感を持つ作品だと私は受け取った。


 まさゆめ開催の直前、目の二人にインタビューする機会があったが、その時になぜか「どうして顔なんですか?」と聞くことができなかった。荒神さんの夢がベースになっていることは踏まえた上で、顔であることに大きな意味がある気がした。が、見る前に理由を聞いてもしょうがないとも感じていて、見てもいないのになぜか「見ればわかるんだろう」という確信があった。
 自分という個体の上部には顔という器官の集合体がある。側面に耳、中央に鼻、皮膚には触覚があり、口と、ふたつの目。見たり聞いたり声を発したり飲み込んだり嗅いだりする機能を使って(または、使わずに)、同じ種の別の個体と感情を交わし、呼応しながら生きている。顔は自分と他者を分けるものでありながら他者とつながるための情報のエントランスだとするなら、空に巨大な顔を浮かべて不特定多数の人間が眺めていたあの時間は、「私は私である」「あなたはあなたである」「私はあなたではなく、あなたは私ではない」「でも、私とあなたには心を伝え合うすべがある」ことを実感するためにあった。今は、そのように考えている。

 《まさゆめ》を見たあと、天気予報を見ると風速を気にするようになった。風が強いと顔は上がらないと学んだので、あ、今日ならいけるな…などと数値を見て判断する癖がついた。もしかしたら今もどこかでまさゆめが上がろうとしているのかもしれない。もう上がらないとしても、空を見て目を閉じてもう一度開いた時に、見上げた場所に想像の中で顔を浮上させることができる。繰り返していたらいつか、まさゆめを正夢にできるような気がしているのだ。

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【9/5追記】

9/5に配信されたまさゆめの報告会で、ステートメントの意図について目のディレクター・南川さんの解説がありました。

7/29に発表されたアーティスト・ステートメントの、主に「私たちは、オリンピック・パラリンピックやそれに関連する事象について、賛成や反対を表明することによって関わるつもりはなく、同時代における芸術活動として、作品を通してより深くコミットすることに挑戦しています。」という部分について解説があり、最初にステートメントの文章を読んで私が解釈したこととは全く違う意図だったと理解しました。特にわからなかった『深くコミット』という部分がどういうことを指しているのかも少し理解できました。ただ、少しわかった(かも)…という状態なのと、アーカイブが残らない配信だったので正確に理解できたのか検証するのが難しいので、一旦引き取ってゆっくり考えてみたいと思います。