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温故知新ガイドツアー④終

🍵宮川香山の普及活動noteに、ようこそ!!
🍵今回は前回に続いて、香山の開窯した横浜ゆかりの地を、
歩いてご紹介したいと思います。
🍵ご興味湧きましたら、是非あなたも、
横浜の歴史街歩きをしてみてくださいまし🎶
観光地としての側面で歩くのとは違った発見があるはずです💡💡

岩亀楼


この岩亀横丁の岩亀とは岩亀楼という遊郭からきている。
港崎遊廓(みよざきゆうかく)は、
1859年(安政6年)11月10日に横浜で開業した遊廓。
現在の 横浜公園 にあった。

横浜スタジアムは横浜公園の中である。

町の名主となった岩槻屋佐吉が経営する遊女屋は、岩槻の音読みから「岩亀楼」(がんきろう)と呼ばれ、遊廓の中でも特に豪華で、昼間は一般庶民に見物料を取って閲覧させていた程の設備を誇った。江戸幕府は外国人専用遊女(羅紗緬)を鑑札制にし、岩亀楼に託した。岩亀楼内は日本人用と外国人用に分かれており、外国人は羅紗緬しか選ぶことができなかった。

この岩亀稲荷の辺りは遊女が静養した施設があったので、岩亀横丁と名が付いた。由来である。戯曲家の有吉佐和子が、「亀遊の死」という、外国人に身請けされるのを苦にして自殺した遊女の戯曲を書いており、その一部がこの神社に記されている。
この神社は近隣住民が維持している。

有吉 佐和子(ありよしさわこ)
1931年(昭和6年)1月20日 - 1984年(昭和59年)8月30日

は、日本の小説家、劇作家、演出家。和歌山県和歌山市出身。日本の歴史や古典芸能から現代の社会問題まで広いテーマをカバーし、読者を惹きこむ多くのベストセラー小説を発表した。カトリック教徒で、洗礼名はマリア=マグダレーナ。代表作は『紀ノ川』、『華岡青洲の妻』、『恍惚の人』など。娘にエッセイストの有吉玉青がいる。

『ふるあめりかに袖はぬらさじ』(ふるあめりかにそではぬらさじ)は、1970年に婦人公論で発表された有吉佐和子による短篇「亀遊の死」を、有吉が自身で戯曲化したもの。幕末の横浜が舞台の喜劇。初演は1972年の文学座公演、主演・お園は杉村春子が演じた。

ストーリー
幕末の開港間もない横浜にある遊廓「岩亀楼」。病床にあった花魁の亀遊は恋仲の通訳・藤吉の励ましで快方に向かう。

ある日、薬問屋の大種屋に伴われ岩亀楼に来たアメリカ人イルウスが、大種屋の相手である亀遊を身請したいと言い出す。その交渉を通訳する藤吉は苦悩するが、結局イルウスが亀遊を身請することになる。しかし身請されることにより藤吉との恋が成就しないこと知った亀遊は自殺してしまった。

尊王攘夷派と開国派とが激しく争っていた当時、亀遊の死は異人に買われる事を嫌ったためと瓦版に書かれ、もてはやされた。読み書きできない亀遊の「露をだにいとふ倭(やまと)の女郎花(おみなえし)ふるあめりかに袖はぬらさじ」という辞世まで捏造される。

「攘夷女郎」のいた岩亀楼はその話を聞きつけた客で賑わい、亀遊の幼馴染みである芸者のお園は亀遊の自殺の真相を知りながらも「攘夷のヒロイン」の話を客に語る事になり、その話も次第に脚色が重ねられることになる。

掃部山公園(かもんやまこうえん)

掃部山は、昔、明治初期の鉄道敷設に携わった鉄道技師の官舎が建てられていた他、地下から湧く水を蒸気機関車の給水に利用していたことから鉄道山と呼ばれていました。その後、横浜開港に貢献した井伊直弼の記念碑を建てる際に、井伊家の所有になりましたが、大正3年に市に寄付され掃部山公園となりました。桜に囲まれた広場の奥では、現在も井伊直弼の銅像が横浜の港の方を向いて立っています。また、公園内には遊具が設置された広場や、池を配した和風庭園があり、公園の一角には横浜能楽堂が建てられています。掃部山公園は桜の名所としても知られていますので、桜の季節には、ぜひお花見におとずれてみてください。

  • ここに使われている石垣は山手の建物にも使われ、フランスの技法を用いており、ブラフ積みと呼ばれる。

  • 不動山から、鉄道山、そして掃部山と名称が移行している。

  • 飯岡幸吉を偲んで、虫の声の歌 毎年8月に虫の音を聞く会が主催して、野点などのイベントを行っている。

「西区虫の音を聞く会」は、鈴虫の音色を聞きながら、野点のだて(屋外でのお茶会)や琴・尺八の演奏などを楽しむ西区伝統のおまつりです。当日は掃部山かもんやま公園に万灯まんどうや手作りの雪洞ぼんぼりが灯ります。和の伝統芸能に触れて情緒ある夏の夕べを過ごしませんか。

横浜市ホームページより
掃部山公園の井伊直弼の像は、
妻木頼黄(赤レンガ作った人)が作った。
明治42年に戦争のため金属回収が行われ、
像は消えてしまったが、台は当時のまま残されており、
開港100年の昭和29年に像の部分が再建された。

妻木 頼黄(つまき よりなか)は、日本の建築家。明治建築界の三大巨匠の一人。大蔵省営繕の総元締めとして絶大なる権力を持っていた営繕官僚。幕末に、幕府旗本の長男として生まれる。工部大学校造家学科(のちの東京大学建築学科)に入学、卒業1年前になって同学校を退学し、コーネル大学建築学科に留学、卒業後ニューヨークのロバートソン事務所で修行。大蔵省などで数多くの官庁建築を手がけ、明治時代の官庁営繕組織を確立した。国会議事堂の建設にも執念を燃やしたが、妻木の在世中に本建築が着工することはなかった。工手学校(現工学院大学)造家学科教員。

Wikipediaより


掃部山公園の蛇口。現在は使われていない。
  • 「一期一会」という言葉は井伊直弼が考案した。

  • 茶道をたしなんでいた井伊直弼は、茶道に元々ある教えを四字熟語に集約した。

  • 外国で古い蛇口は大抵ライオンの顔の意匠が使われている。ライオンは水の神様だからだ。

  • 当時の井戸から水道へ。水栓の仕組みを横浜はイギリスから600基、輸入。日本らしくとの事で水栓の顔をライオンではなく龍の意匠を採用した。それが、「蛇」口、蛇口の由来である。

稼働している日本最古の能楽堂

井伊掃部頭ゆかりの地として、能楽堂もある。
(20240302時点で工事中)

明治8年から稼働している、使われている(保存されているものではもっと古いものもある)能楽堂の中では日本最古である。
加賀藩前田家にあったものをここに移設した。

この能楽堂の特徴として、鏡版に松の他、梅と笹も描かれている。
松はお決まりなのだが、他のものが描かれているのは大変珍しいため、テレビなどで鏡版だけ映っているのを見ただけで通はこの能楽堂だと分かるという。

下記分かり易い鏡板の説明です↓↓↓

能楽堂に入ってまず目に飛び込んでくるのが、舞台後方の大きな松ではないでしょうか。松が描かれた板を鏡板といい、固定された舞台装置のひとつとなっています。
能でも狂言でも、優美な曲でも悲痛な曲でも、観客は常に松の前で繰り広げられる演技を鑑賞することになります。
鏡板の呼び名については、奈良・春日大社の「影向(ようごう)の松」と関連付けて説明されるのが一般的です。影向とは神仏が現世に降臨すること。春日明神の化身である松が観客席の側に存在しており、それを鏡のように映したものが鏡板である、つまり舞台上の役者は観客ではなく神に向かって演じているのだ、と。もっともらしい説ですが、鏡板が定着するのは桃山時代以降。この由来は後世の創作だという考えも有力です。
ただ、1年を通じて枯れることのない松が、あらゆる演目と相性が良いのは確か。庭園や盆栽など、移ろう季節と松との対比を楽しむ日本文化は、能楽に通じるものがあるかもしれません。

能楽トリビアより

神奈川県立図書館

神奈川県立図書館。とてもきれいな図書館。ここはもともと前川國男館が建っていた。
柱や、くりぬいたレンガなどの意匠を、図書館に残している。
歴史への敬意を残して新しいものを作る精神がとても素敵。

前川 國男(まえかわ くにお)1905年5月14日 - 1986年6月26日
は日本の建築家である。
ル・コルビュジエ、アントニン・レーモンドの元で学び、モダニズム建築の旗手として、第二次世界大戦後の日本建築界をリードした。丹下健三、木村俊彦は前川事務所の出身であった。

海の日7月20日の由来は、今はでっかいホテルになっている所に、明治天皇がお使いになっていらした横浜御用邸があった。明治天皇が初めて横浜に宿泊された日が海の日。


さあ、ここまでで、私のメモは終っています。ガイドツアーは終了、
桜木町まで戻って解散したということです。

このあと私は、同じツアーガイドについて行った参加者の女性と二人で、スタンプラリーを最後まで回ったのですが、それはまた次回番外編でお話するとしましょう。
では、またこのnoteでお会いしましょう🍭🥰🍭

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