CPTゆらぎの定理

今回も動画紹介から参ります。田崎さんの非平衡統計力学のオンライン講義から、ゆらぎの定理の紹介の箇所です。私は非平衡統計力学の講義を受けたことがない(はず)なので、こういった高レベルの講義がオンラインでいつでも受講できるということは素晴らしいことです。

さて、この講義でもそうなっているのですが、ゆらぎの定理の導出で気になるのは、時間反転対称性を使うところです。実際、時間反転対称性は素粒子理論の対称性ではないため、自然界の基礎法則を議論する際に、時間反転対称性を仮定するのは良くないと考える立場があります。たとえば熱力学第二法則が、万一、時間反転対称性に依拠しているとすると、バリオン生成など初期宇宙において熱力学が破れてしまう可能性があるからです。同じような趣旨がワインバーグの場の理論の教科書にも書いてあります(ワインバーグは実際ボルツマンのH定理を時間反転対称性を使わずにユニタリ性だけから導いているので、ほとんどの統計力学の本では仮定されている時間反転対称性は本質的でないと言っている)。

しかし、沙川さんから、「CPT対称性で定式化すればいいんじゃないですか?」と教わったのを思い出したので、それをやってみよう、名付けてCPTゆらぎの定理、というのが本稿です。(以下の内容は、沙川さんに責任はありません。)

セットアップとして、田崎さんの動画にある、2つの熱浴を接触してエネルギーの移動が起こったときにエントロピーの増え方(減り方)の確率を求めることを、系の時間反転対称性は認めずにCPT対称性だけを仮定してやってみることにします。田崎さんの動画との違いとして、熱浴と言ったときに、温度だけではなく、「バリオン数」に対応するケミカルポテンシャルを導入します(あるいはもっと初期宇宙ではバリオン数は保存しないので、$${U(1)_{B-L}}$$を使ったほうが良いのですが、記事の都合上、まとめて「バリオン数」と呼ぶことにします)。「バリオン数」にケミカルポテンシャルを入れる理由は、そうしておかないと、熱平衡状態で粒子と反粒子が同じだけ存在してしまい、わたしたちの宇宙への応用が乏しいからです。

まず、以下で使うCPT定理の力学的な帰結を述べておきましょう。CPT定理とは、相対論的な量子場の理論(素粒子標準理論を含む)において荷電共役、空間のパリティ変換、そして時間反転をすべて行うと(運動方程式を含めて)理論は不変であるというものです。例えば、弱い相互作用は時間反転で不変でないのですが、CPTの組み合わせでは不変になっています。

さて、以下で使うのは、初期状態にあるエネルギー $${E}$$と「バリオン数」$${Q}$$ を持った状態$${\Psi_i}$$ があって、それが終状態に同じエネルギーと「バリオン数」を持った状態$${\Psi_f}$$ に運動(遷移)したとすると、それに対応して CPT 変換した運動、つまり、エネルギー$${E}$$ を持って「バリオン数」$${\bar{Q} = -Q}$$ を持った 、($${\Psi_f}$$をCPT変換した)状態 $${\Psi_{\bar{f}}}$$ から ($${\Psi_i}$$ をCPT変換した) $${\Psi_{\bar{i}}}$$ へのCPT逆運動が一対一に存在するという事実です。ここで、エネルギーと「バリオン数」が一連の過程で変化しないのは、エネルギー保存と「バリオン数」保存のためです。また、CPT逆運動で、「バリオン数」に負号がついているのは、CPT変換に入っている荷電共役の効果です。ここでは、あらわには書いていませんが、$${\Psi_i}$$ と $${\Psi_{\bar{i}}}$$ では CPT 変換が行われているので、運動量はパリティと時間反転で2回符号が出て、同じ符号になり(田崎さんの動画のように時間反転だけだと、運動量は符号が変わるのに注意)、粒子は反粒子に入れ替わっています。例えば、宇宙のビッグバンによる元素合成を考えたとすると、その CPT 逆運動は、反宇宙のビッグクランチによる反元素の分解になります。

CPTゆらぎの定理の主張と証明自体は(もともとのゆらぎの定理の証明と比べて)難しくはありません。今、$${(\beta_1,\mu_1)}$$ の逆温度とケミカルポテンシャルを持った熱浴 1 と $${(\beta_2, \mu_2)}$$ の逆温度とケミカルポテンシャルを持った熱浴 2 がそれぞれグランドカノニカル分布にあり、それぞれの分布確率に基づいて、エネルギー と「バリオン数」$${(E_1, Q_1)}$$、 $${(E_2,Q_2)}$$ を引いてきたとします。そこで、2つの熱浴をCPT不変にガチャガチャ相互作用させて、最終的に、エネルギーと「バリオン数」が $${(E_1', Q_1')}$$、 $${(E_2',Q_2')}$$ になったとします。この運動が起こる確率は、初期分布のグランドカノニカル分布から、$${P = \frac{1}{\Xi_1 \Xi_2} e^{-\beta_1(E_1-\mu_1 Q_1) - \beta_2( E_2-\mu_2 Q_2)} }$$ です。この終状態は一般に熱平衡ではありませんが、ここで、今の運動はご破産にして、仮想的に、終状態のCPT変換を考えて、それを初期値にするCPT逆運動の確率を、今の宇宙ではなく初期状態をCPT変換した熱平衡にある反宇宙で考えます(温度は同じだけどケミカルポテンシャルの符号は変わることに注意)。このときにCPT逆運動の初期状態は、$${(\bar{E}_1, \bar{Q}_1) = (E'_1, -Q'_1)}$$、$${(\bar{E}_2,\bar{Q}_2) = ( E'_2,-Q'_2)}$$、終状態は、$${(\bar{E}'_1, \bar{Q}'_1) = (E_1, -Q_1)}$$、$${(\bar{E}'_2, \bar{Q}'_2) = (E_2, - Q_2)}$$ になります。このCPT逆運動の確率は、やはりCPT反転した初期分布のグランドカノニカル分布から$${\bar{P} = \frac{1}{\Xi_1 \Xi_2} e^{-\beta_1(E'_1-\mu_1 Q'_1) - \beta_2( E'_2-\mu_2 Q'_2)} }$$となります。(ケミカルポテンシャルと「バリオン数」の両方の符号反転が相殺していることに注意)。

ここで、エネルギーと「バリオン数」の保存則から、$${E_1 + E_2 = E_1' + E_2'}$$ 、$${Q_1 + Q_2 = Q_1' + Q_2'}$$ が成り立つことに注意します。 今、もし運動が終わったあとに熱平衡になり移動したエネルギーが熱になると仮定するとエントロピー生成$${\Delta S}$$を熱力学的な関係式から $${\Delta S = \beta_1 (E'_1 -E_1 -\mu_1 Q'_1 + \mu_1 Q_1) + \beta_2 (E'_2 - E_2 - \mu_2 Q'_2 + \mu_2 Q_2) }$$ と定義するのが自然ですが、前段落で導入したグランドカノニカル分布で与えられた初期状態の確率分布と見比べると $${P = e^{\Delta S} \bar{P}}$$ が(エントロピー生成の定義により)直ちにわかります。これが、「ある過程とCPT逆過程の起こる確率の比がエントロピー生成であたえられる。」というCPTゆらぎの定理です。

この関係式は、私達の宇宙で起こるプロセスの確率と(私達は決して観測できない)反宇宙で起こる逆プロセスの確率の比をエントロピー生成と結びつけていて、時間反転を仮定した場合のゆらぎの定理に比べて、直感が働かないと思います(しかし、もともとの時間反転を仮定したゆらぎの定理同様に数学的には自明です)。それにもかかわらず、この結果を用いて、私達の宇宙で起こるプロセスに対してエントロピー生成がグランドカノニカル分布のアンサンブル平均として正であることが示すことができます。長くなってきたので、これだけ最後に紹介して終わりましょう。

まず、数学的な準備として、任意の実数 $${\Delta S}$$ について、$${\Delta S e^{\Delta S} \ge e^{\Delta S} - 1}$$ が成り立ちます。そこで、エントロピー生成の期待値は、$${(i,a)}$$ を系1と系2の状態のラベルの組として $${\langle {\Delta S} \rangle = \sum_{i,a} \Delta S_{i,a} \frac{1}{\Xi_1 \Xi_2} e^{-\beta_1(E^i_1-\mu_1 Q^i_1) - \beta_2( E^a_2-\mu_2 Q^a_2)} }$$ と与えられます。ここで初期値$${(i,a)}$$ の和はCPT逆過程の初期値 $${(\bar{i},\bar{a})}$$ の和を取ることと同じであることに注意すると、CPTゆらぎの定理を使って、 $${\langle {\Delta S} \rangle = \sum_{\bar{i},\bar{a}} \Delta S_{i,a} e^{\Delta S_{i,a}} \frac{1}{\Xi_1 \Xi_2} e^{-\beta_1(E'^{\bar{i}}_1-\mu_1 Q'^{\bar{i}}_1) - \beta_2( E'^{\bar{a}}_2-\mu_2 Q'^{\bar{a}}_2)} }$$ ですが、さっきの不等式より $${\langle {\Delta S} \rangle \ge \sum_{\bar{i},\bar{a}} (e^{\Delta S_{i,a}}-1) \frac{1}{\Xi_1 \Xi_2} e^{-\beta_1(E'^{\bar{i}}_1-\mu_1 Q'^{\bar{i}}_1) - \beta_2( E'^{\bar{a}}_2-\mu_2 Q'^{\bar{a}}_2)} }$$ です。しかし、よく見ると、$${(\bar{i}, \bar{a})}$$ の和を $${(i,a)}$$ の和に入れ替えると $${ \sum_{\bar{i},\bar{a}} e^{\Delta S_{i,a}} \frac{1}{\Xi_1 \Xi_2} e^{-\beta_1(E'^{\bar{i}}_1-\mu_1 Q'^{\bar{i}}_1) - \beta_2( E'^{\bar{a}}_2-\mu_2 Q'^{\bar{a}}_2)} = \sum_{i,a} \frac{1}{\Xi_1 \Xi_2} e^{-\beta_1(E^{{i}}_1-\mu_1 Q^{{i}}_1) - \beta_2( E^{{a}}_2-\mu_2 Q^{{a}}_2)} }$$ なので、第一項と第二項は同じになり、「熱力学第二法則」$${\langle {\Delta S} \rangle \ge 0 }$$がアンサンブル平均として示されました。(熱力学第二法則としての解釈は、力学だけから示されたのではなくて、エントロピーが増えたと解釈するために、運動後に熱平衡になったとすると言う示していない仮定に基づいていることに注意)。

蛇足かもしれませんが、もう一つだけ注意をしておきます。ここで、示したCPTゆらぎの定理は時間反転対称性を持たない素粒子標準理論でも正しい完全な定理ではありますが、統計物理の教科書でも「普遍的に正しい」この定式化をするべきだという意見は間違っています。それは、CPTゆらぎの定理は日常のエネルギースケールの物理には適用できないからです。そもそも定理の前提のところで、弱い相互作用が日常のエネルギースケールでは熱平衡になっていないからです。日常のエネルギースケールで成り立っているのは、時間反転対称性を持った有効的な原子・分子のハミルトニアンに基づいた(近似的に成り立つ)時間反転対称性を使ったゆらぎの定理です。究極理論で導かれる定理は役に立たないけど、近似理論で導かれる定理は役に立つ、という世界の階層性は不思議ではありますが、これはまた別の機会に考えることにしましょう。


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