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”若者のすべて”

先々月の6月18日、私はラオスで誕生日を迎え、29歳になった。

私にとって29歳という時間はちょっと特別だ。そしてここ最近、インスタのストーリーで日本の友人たちが各地で開催される花火大会の写真や動画をあげているのを見て、その意味合いがさらに増した。

29回目の誕生日を特別にしたのは、『フジファブリック』の元ギターボーカル、志村正彦氏だ。

高校生の頃、ロキノン系(ロック系の月刊雑誌ROCKIN'ONによく取り上げられるアーティストのこと)好きの友人たちがフジファブリックに夢中になっているのを横目に、私は洋楽ばかり聴いていた。

邦楽なんて世界では流行らねえ、時代は外タレだ!ハードロックだ!ヘヴィメタだ!!という、今思い出しても香ばしく酸っぱい、嬉し恥ずかし洋楽かぶれ高校生だったからだ。

今の私はというと、なんなら、年間数本は邦楽ロックのフェスに行くぐらいには、ロキノンが大好物だ。多分、あの時のロキ厨の同級生のプレゼンテーション能力が低かったのだ。(ごめんなさい嘘です)

大学に入ってすぐ、仲良くなった人たちとのカラオケ大会が続いた。その中にもロキノン厨が半数以上居た。おかげで今まで聴いてこなかった色んな音に出会って、フジファブリックの名曲『若者のすべて』や『銀河』、『虹』、『ダンス2000』、そして『唇のソレ』など、どこか癖になるフレーズに、私はすぐに夢中になった。

彼らの音楽は、中毒性があるだけでない。ボーカル、ギター、ベース、ドラムという普通のバンドの構成に金澤さんのキーボードが入ることで、音の厚み、奥行き、幅、表現の全てが増している。やすっぽいシンセサイザーじゃない、あの音色にあえて名前を付けるなら『カナザワ』だ。そうくんの軽快なカッティングや丁寧なギターソロと、加藤さんの歌うようなベースに乗せられる『カナザワ』は、フジファブリックにしかない。独特のサウンドキャラクターにのっかる志村の声が、更にバンドの色をつよくする。

どこかノスタルジックなにおいがするメロディーにのせられる歌詞は、”日本人的”というべきか、好きを好きだと言わず、嫌いも嫌いだと言わない、すべてがあべこべ天邪鬼な世界。突然英語でかっこつけるサビなんてどこにも見当たらなくて、自然な、やさしい日本語で、かつ聴き手に答えを与えない、美しくていじわるなものが多かった。何が言いたいのかさっぱり意味の分からないものも、同じぐらい多かった。

大学生のころ貧乏ライダーだった私は、高速を使わず、下道ばかり使ってあちこち出かけていた。ヘルメットに搭載したスピーカーで昼間に聴く『虹』、夕方の『陽炎』、夜の『銀河』は、どれも最高だった。どこまでも走れる気がしたし、実際にどこまでも走っていた。(委員会の後輩たちのおかげで、単位ぎりぎりで卒業しただなんて、親には口が裂けても言えない。)

ある時、ツーリング中通り雨に降られて、止まるところもない田舎道を、着ているものも持ち物も全部びしょびしょになりながら走ったことがあった。(むしろそんなことばっかりだったか。)

長いトンネルを抜けたらちょうど雨上がりで、『虹』を聴いていた私のために架かったのではないかと思うぐらい美しい虹がはるか彼方にかかっているのを見た時は、その景色があまりにきれいで、一生忘れたくないと思った。

ライブに行きたいという不純な理由で田舎を飛び出して大阪の大学に進学し、一人暮らししていた私は、フジファにハマってから、彼らのライブに行けるだけ行った。大学1回生の4月に好きになってから、ハイペースで行った。

その年の11月、他大学の学園祭ライブでフジファブリックを見た。雨がしとしと降る肌寒い夜に、雲の隙間から月がのぞく最高の演出の中、『雨のマーチ』と『お月様のっぺらぼう』を聴いた。あの日のための曲だと思った。

でも志村は亡くなった。最後に見たライブから1か月後のクリスマスイブに、自室で亡くなった。なぜ亡くなったのかは”不明”とされた。

ファン歴は浅かったけど、音楽を好きになる事に時間は関係なかった。

人は自分でどうしようもないことを受け入れられないとき、こんな泣き方をするんだなと、ひとつ学びになった。あんなに辛いクリスマスイブはもう2度と来ていただかなくて結構、わけもわからず泣いてたら日付が変わっていて、放心状態で終わったなんて、そんなクリスマスも、もうこりごりだ。

その時の彼が、ちょうど29歳。あれから10年経って、29歳になってみて分かったことがある。

29歳なんて、まだまだこれからだ。めちゃめちゃ元気だ。元気があれば、なんでもできる。

2009年は本当に嫌な年だった。清志郎も、マイケルジャクソンも、アベフトシもレスポールも、2009年に亡くなった。日本の、世界の、偉大な音楽家をさらっていったのに、年の瀬にもう一人・・・なんて、音楽の神様もとことん意地が悪いと思った。

29歳。並んでしまったら、あとはもう追い越していくしかない。志村が生きていたら、いま39歳のはずなのに。私たちが子どものような絵を描けないように、芸術はそのときのその人のその人にしか表現できない。

志村は29歳までの音楽をつくった。けど、その後は、どう願ったって、叶わないのである。ハイレゾだなんだと言ったって、私にしてみたら音源なんて全部カタログだ。ライブに行って生の音を聴くことがすべてだ。

彼が亡くなった1年後の7月に開催された『フジフジ富士Q』には、フジファブリックと仲がよかったバンドが集い、彼の曲を大切に大切に演奏した。しょーやんの『茜色の夕日』は今思い出しただけでも目頭が熱くなる。

夜通し行われるDJイベントで、生前最後のアルバム『Chronicle』の『Sugar!!』が流れたときも、泣きながら踊った。隣の人も泣いてた。曲が終わったあと、自然にまわりの人たちと汗だくでハグした。同じ気持ちの人が居るんだって思ったら、嬉しかった。

私は、そうくんがフロントマンになってから、フジファブリックを聴けなくなった。志村の事を思い出して悲しくなるから、無意識に遠ざけたんだと思う。真ん中に志村がいないフジファブリックを見たくなくて、フェスに来ていてもあえて選んで見に行くことはしなかった。

ところが、最近たまたまYoutubeでミックスリストを流していたら、今年のフジファブリックの『若者のすべて』が再生された。

そうくんが歌う『若者のすべて』が響きすぎて、懐かしくて、泣いた。ぽっかりと穴があいたと思っていた志村の場所には、現フロントマンのそうくんがちゃんと立っていた。

それで、最近のフジファブリックを聴いてみた。

なんやぁ、良いやん、志村がいなくなっても、良い音楽になった、じゃなくて、今のフジファ、めちゃめちゃ良いやん。そうくん、めちゃめちゃ良いやん。声、透き通ってて素直で、弾きながら歌ってこのぶれへん演奏とパフォーマンス、すごすぎるやん。

って。

それから夢中で、今のフジファばっかり聴いて。早くも、今のフジファのライブに行きたくて、そわそわしてる自分がいる。

でもやっぱり、時折志村の声が恋しくなる。夏の終わりにやってくる秋の匂いとか、冬の始まりの冷たい風とか、濡れたアスファルトの向こうに架かる大きな虹とか、フジファブリックの曲は私の心が動く瞬間にたくさん重なってきたから、きっとそう思うんだよな。

もうすぐ私は志村を追い越してしまうけど、若者だった自分が大好きなフジファブリックは耳にも心にも染みついているし、志村がつくった音楽は今のフジファブリックがちゃんと繋いでくれている。だから、私も毎日、好きな音楽を好きなだけ聴いて、心が動く瞬間に大好きな音を重ねて、少しずつ年をとっていこうと思う。

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