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あなたに浅倉透を愛しているとは言わせない――あらかじめ読みえないテキスト群をそれでも言祝ぐための一試論

その晩
夢の中で
アキに抱かれた

生ぬるい風
花の匂い
草いきれ

何度も交わされるキス

夢は記憶の合成だと
言うけれど
あたしはあんな
楽園を知らない
――小川彌生「われアルカディアにあり」


序章:「読めなさ」からすべてをはじめよう

 ノベルゲーム――シャニマスがそれとしてはあまりに簡略化されていて、本来持つ旨味が損なわれているとしても、その損失は浅倉透の美質を棄損するものではないことは、賢いプレイヤーであれば看取しうるだろう――の特質において、人物の評価は必然的にテキストの可読性から始まり、その登場人物の考えていることや、もしかしたら見えている世界さえ優れたライターによって可視化されるかもしれないが、ともかくオタクの愚かな錯覚を経由し、虚構内存在は一つのリアリティを獲得するに至る。つまるところ、私たちは浅倉透はもちろん、黛冬優子や樋口円香においてさえ、戯画化のプロセスを盲目的に享受しつつも、キャラクターの手触りというものを現実世界の写し絵としてではなく、それ自体として自律可能なフィクション的なリアリズムの具現化としても受け取っている。「アイドルをプロデュースする」という建前がそうさせているのかもしれないが、私たちがシャニマスをプレイするときに見ている景色というのは、極端に誇張された細部というよりも、全体として受け取るあるぼんやりとした「印象」である。それはつまり、WINGに負けて「もっと頑張ればよかった」という摩美々を前にして画面をタップする指が震えてしまったり、廃墟の学校の教室からメンバーへの愛を叫ぶ果穂に涙をこらえきれなかったりする、私たちがシャニマスをプレイすればするほど擦り切れてしまって忘れてしまいがちなあの衝動こそが、アイドルとともに進んできた私たち「プロデューサー」が持つ「印象」であり、かつ「原風景」である。そのような景色に数多くの――ある種の無謬性と愚かしさとともに――私を含めたプレイヤーによる言語化が(シャニマスそれ自体の性質も多分に前提とされたうえで)なされてきたというのもまた、このゲームに触れてきた人々には自明とも言える事実である。
 「コミュ」、「キャラクター」、あるいは「歌詞」まで、なんでもいいが、シャニマスのテキスト群を「解釈」・「考察」する試みはその巧拙を問わず山積している一方で、私たちが次に求める「シャニマスについてのテクスト」がなんなのかということが問われなければならない。私たちは、人間存在の思考があらかじめ持つ運命として、既存の素材から概念を練り上げ、それを伝わるように言語化するということにはどうやら慣れているようだ。他方、上に挙げたような「印象」や「原風景」といったものをうまいこと別の言葉にパラフレーズしたり、その人が受け取った「印象」なりをその人が感じたように他人に伝えるということは、苦手か得意かは置いておいて、避けてきたようにも思える。こう言い換えることもできるだろう。概念化や言語化という一つの操作が(何度も言うように、上手い下手はあれど)ことアニメや美少女ゲーム、シャニマスの場合はソーシャルゲームという形態においてある程度「自分にもできる」ように思われるのは、何よりも「テキストに書いてあることをそのまま受け取ればよい」という一種の思考停止的な態度が可能にしていることである。これはもちろん思考停止が悪いということではなく、そのような態度があって初めて始まる言説というものが存在するということである。そしてこういった思考停止は、大げさに言えば長らく哲学が負ってきたものであり、「これは、分からないよね」という共通了解とその了解の明晰さによって判明する科学的思考こそが哲学を支えてきたし、サブカルチャーをめぐる多くのプロ・アマによる「批評」が多かれ少なかれ哲学に負うものが多かったのはそのせいでもある。翻って、「印象」の言語化の難しさというのは、それが私的言語に依存しているということはもちろんのことながら、「何が(自分/他人にとって)分からないのか」、という「分からなさ」の確度が一定しないからである。上に述べた「概念化」が「テキストに書いてあるから」という理由における(一見)「客観的な」態度表明をあまりにも雑に哲学と呼びならわすとするならば、「印象」は「テキスト」、文字にのみ依存しない映像性も含んだイメージの共有を「主観性」の問題として哲学とは別の態度表明として文学の仕事であると言うことも可能である。もちろん、この用語法はあまりにも危険で、不用意であることは書き手としても重々承知している。しかし、この「哲学」と「文学」の二項対立がシャニマスというゲーム――こういった二項対立が可能なのは、シャニマスが何よりも文字優位のゲームだからだ――を支配していると仮定するならば、その愚かしく無批判的な「哲学」の横行をこれ以上許すわけにはいかないだろう。多くは「考察」と書き手が名付けることによってある種の責任を免れている(あるいは、書き手が責任を免れさせたい)文章の持つ罪深さに対して、私たちはシャニマスを「読めない」という一つの不能から文章を始めてみたいのである。そこにおいてなされる仕事は、「文学」のそれであり、体のいい結論や誰にでも分かる「解説」は省かれ、書き手の思考の綾やテクスチュアが生のままに呈示されるだろう。何よりも、私たちがこれから語るキャラクターである、浅倉透についての「印象」と、「私たちが浅倉透について何を知っているのか」という問いが改めて明確になるとともに、その問いに答えが出ることはなく、問いは問いのまま付されるだろう。
 今こそ浅倉透について書かなければならない。茫漠とした彼女のテキスト群から、それとは本質的に異なりながらも秘めやかな同一性を持った「テクスト」を編み上げ、それを第三者に対して大きな疑問符として提出すること。シャニマスというゲームの一つの罪は、「行間」を読むことを過剰に読み手に要求することである。結果として、テキストは単なる「謎解き」になり、コミュのタイトルからシナリオ内の小ネタまで、ありとあらゆる細部は肥大化し、一つの「正解」に向けて多くのプレイヤーは熱狂する。果たして、シャニマスが目指す読みとはそういうものだったのだろうか、と私は首をかしげる。「俺が一番浅倉透のことを分かっているんだ」、そういう誰にも踏み入れさせない領域を各々に作ってもらうことが、あのテキスト群が言外に私たちにささやきかけていたことではなかったのだろうか。もちろん、そういった「正解」ありきの読みというのも、楽しみ方の一つではある。しかし、あまりに画一化されていて、なおかつコンテンツとしても5周年を迎えたものをめぐる言説としては貧弱すぎるとしか言いようがない。あなただけの「シャニマス」を練り上げるためのレッスンとして、この文章は書かれている。肥大化する細部ではなく、巨視的な視点こそ、テキスト=テクストを読む最大の手助けであることに留意しつつ――そしてこの文章を読んだあと、あなたの「シャニマス」を始めることが何よりも大切である――「読めなさ」を「読む」ことが、読まれるために書かれた文章すべてにとっての呪いであり祝福であるということを、どうか忘れないでいただきたい。
 
 さて、そろそろ私たちは浅倉透について簡単な助走をつけて、本題に移ろう。彼女を「解釈」することは、さしあたってこの文章でさえも避けがたい宿命ではあるが、それにしても浅倉透を「読む」ことは往々にして虚しい失敗に終わっているように映る。それは私たちがかつて書こうとした彼女についての文章もそうだし、同じく彼女に衝き動かされて文章を書こうとした人々にあっても、同じことである。なぜ失敗してしまうのか。一つは、彼女が見ている景色を見ようとすることが、スタンスとして間違っているということである。シャニマスについての卓越した文章は本当に少ない。いくつかシャニマスについて書いてきた私自身でさえ、本当に黛冬優子や七草にちかについて正鵠を射た文章を書けたためしがない。複数形としての「私たち」は、ゲーム内で描かれている世界がアイドル達自身によって捉えられた世界だと錯覚してしまうばかりに、自分たちも彼女らの世界を代弁してみようと躍起になる。この文章では、「浅倉透」がどんな世界を見ているのか、を描こうとするものではない。もちろん、折に触れて彼女の世界観を覗き見るような手つきが文章の中に見られることもあるだろうが、それは本稿の眼目とするところではない。そうではなく、「私たち」が浅倉透を通じて何を見るのか、ということをテキストに即して追うことにより、浅倉透から私たちが受け取るものを言葉にしようとすることが、この文章の最終的な目標となる。あるときは樋口円香に登場してもらうだろうし、あるときはプロデューサーの言葉に浅倉透自身を見ることもあるかもしれないし、しかし最終的に問題になるのは私たちと浅倉透の密やかな関係についてである。
 すべての言葉が役に立たないように思われるとき、倒置法と体言止めがもたらすポエジーもまた無力であろう。しかし、透明であることにアデューを告げる少女が始める物語が、私たちに再度物語を終わらせる勇気をくれることもまた確かである。そして私たちはあなたがたにこう言うのである――あなたに浅倉透を愛しているとは言わせない、と。

第一章:役立たずの二人称、あるいは大切な誰かを不幸にしてしまうほどのまばゆさについて――『天塵』、【UNTITLED】、樋口円香GRAD

 私たちが浅倉透について何かを言うことを始めるにあたって、樋口円香の存在を措いて始めることはできない。樋口はいわば「役立たずの二人称」である。特段の努力はしないししたくもないが、なんでもそれなりにできる。そして「なんでもそれなりにできる」ということが、浅倉に対する劣等感と羨望、または独占欲とも嫉妬ともつかない、本人にも説明しがたい独特のぬめりとして表れる。まずは樋口円香から始めよう。そして、樋口円香が浅倉透について語るように私たちは浅倉透を語ることができないという事実を引き受けることが、何よりも浅倉透を理解するための準備として適切であるということを信じてみることにしよう。

 sSSR【UNTITLED】は、樋口の浅倉に対するねじれた感情を端的に示すコミュであり、特にラストの「部屋」における樋口の独白はシャニマスファンには有名である。WING、GRAD、LPと見ていって、浅倉の成長を単なるビルドゥングスロマンと言うことはなかなか難しい。GRADについては後述するが、LPにおける複層的な展開と「捕食者」を自覚し始めるシナリオは、果たして「アイドルとしての浅倉透」ではなく、何か大きな脅威が目を覚ますまでの――『天檻』予告編で言われているように、「美しく大きな獣」であるところの浅倉透――プロローグとして全体が構成されているようにも思える。しかし、樋口はかなり単純な「アイドルとしてのビルドゥングスロマン」であるようにも見える。しかも、かなり不用意にも。浅倉の見守りとしてプロデューサーに付け入ったつもりがスカウトされ、なかばアクシデント的に283プロに入ることになってトップアイドルを目指すWING、知り合いのアイドルによって自己を反省するきっかけを与えられるGRAD、プロデューサーとの魂を通じた会話によって「アイドル」である自分を愛せるようになるLPまで、(もちろん【カラカラカラ】、【ギンコ・ビローバ】、【ピトス・エルピス】といった一連の優れたシナリオが読めるpSSRがそれぞれの行間を埋めているのも手伝って)樋口をめぐるストーリーテリングは潔い簡潔さによって貫かれていることは多くの人が認めるところだろう。こういった「アイドル」としての自覚に樋口が目覚めていく一方、【UNTITLED】で樋口は学校や撮影現場での何気ない会話に敏感に浅倉の「ただならなさ」を感知するとともに、奇妙な優越感の表れとも言えるような「浅倉透のことは、私だけが分かっている」という独白を述べる。

 樋口は、もしかしたら雛菜や小糸とはまったく(という言葉では足りないほどの異質さをもって)異なった湿度と距離感で浅倉に対峙している。しかし、ここまでなら他の色々なシャニマスの論客が指摘していることと変わったことを述べているわけではない。問題はもっと他のところにある。それは、樋口円香は一体なぜ、自らの凡庸さをそれほどまでに憎んでいる(いた)のか、ということである。
 上に「樋口円香は、ある種単純なビルドゥングスロマンである」という旨のことを述べたが、そもそもWINGでの彼女を思い起こそう。「身の程って現実でしょ」、「怖い……」とアイドルである/いることへの恐怖を繕わずに吐露する彼女は、明らかに自らが凡庸であることに自覚的である。しかし、GRADでは「だいたいなんでもできた」ということをプロデューサーに口にしてもいる。樋口の自身の凡庸に対する葛藤は、自分が何かに熱を入れあげてズタズタになるまで苦労してこなかったということのコンプレックスと表裏一体でもある。樋口のGRADで問題になるのは、「言葉の重み」である。自身を必要以上に卑下する駆け出しのアイドルに対して、「あなたは、あなたのままで間違っていない」と投げかける樋口の言葉は、「軽い」のだろうか?

 「樋口さんは、私のことをずっと、哀れんでいましたか?」というアイドルの質問への回答はシナリオ中でも明言されていないし、樋口がどう答えたかというのもさして重要ではない。「あなたは、あなたのままで間違っていない」という自己同一性に対する無条件の肯定を無責任に・・・・投げかけたことを樋口はもっとも後悔している。その無責任さというのは、樋口がプロデューサーに対して感じている無責任さと同質のものである。誰かの人生に対して、自らの命を燃やし尽くすほどにコミットできるのかという問いは、ずっと樋口円香という存在の周りを回っている問いであり、これが浅倉に対して抱く特別というにはあまりにも後ろ暗くどす黒い欲望の本質をなす点である。つまり、樋口が自らの凡庸をこれほどまでに強く呪うのは、彼女自身が他者に対してまなざす眼差しが自分の最も嫌う凡庸であるからであるとともに、浅倉に対する眼差しは自分の最も嫌う凡庸さと根底を一にしつつもひとつの特異的な欲望として独立しているということが、樋口の浅倉に対する嫉妬とも羨望ともつかない彼女だけの絶望を可能にしているということである。話を【UNTITLED】に戻すと、浅倉はよく「どこを見ているのか分からない」とクラスメイトからも撮影現場のスタッフからも言われている。そしてその姿すら、彼女は人の目を惹き付けてしまう。

浅倉についての言及が行われる際、よく問題になるのは「視線」である。「カメラを食う」というGRADでの「捕食者」でも浅倉「を」見るものが問題になるし、LPでは浅倉「が」観る映画が主題になっていたりと、何かと視覚的イメージと絡めて浅倉は表象されている。【UNTITLED】では、「なぜか分からないけど浅倉を見てしまう」という浅倉が生み出す圏域が日常的に彼女を目にしているノクチル内の雛菜と小糸でさえ巻き込んでしまうということが描かれている。しかし、樋口は彼/彼女らのように単に巻き込まれるということでは終わらない。

樋口の「色々、考えてきたんだ?」という問いにいつものごとく「あー」と適当に返す浅倉は、明らかに何も考えていない。「何も考えていない」ということを見抜けることが自分だけであるという事実が、樋口にとってはたまらなく嬉しい――果たして「嬉しい」などという無邪気な形容詞に樋口の欲望を託してよいものか判断がつきかねるが。「幼馴染」という、それだけ取ってみればありきたりな関係性だけでは説明できないものが樋口と浅倉の間の磁場には働いている。そこにあるのは、やはり樋口の耐えがたい自らの凡庸さに対する嫌悪であり、そしてそれと裏返しの関係にある「天才」浅倉透を本当に分かっているのはこの私だけなのだ、という浅倉への埋まりようのない溝への諦念と絶望なのである。

 浅倉と樋口だけではなく、ノクチルとしても、そしてシャニマスのイベントコミュ全体を見ても、『天塵』に目を向けないわけにはいかないだろう。やみくもに走り出してしまった四人が、幼いころの「海へ行こう」という約束を不本意な形で反復することを通じて、単なるありもしない記憶の再演としてではなく、反復から逸脱した奇跡的な瞬間を掴むまでの一部始終を綴る物語として、『天塵』は今なおシャニマスのコミュの中でも最高傑作のひとつに数えられている。
 物語の冒頭は、樋口が(おそらくWINGの直後かその最中ぐらいなのだろう)アイドルになったことを後悔する「ハウ・スーン・イズ・ナ→ウ」から始まっている。「どこに行くの、私たち」とひとりごちる樋口は、既に転がりだしてしまった四人の運命に、誰がどうやって落とし前をつけてくれるのか分からない不安に駆られており、プロデューサーでさえもそれを信じる担保とはなっていないように見える。樋口のモノローグのさなか、恐らく幼年期のノクチル四人の会話がフラッシュバックで挿入される。幼い浅倉は、「海に行こう」と言う。

浅倉が言う「海」は、もちろんのことながら本当に海に行きたくてたまらないわけではなく、四人みんなの「遠くへ行きたい」という願いを叶える場所としての海である。しかし樋口は、そのあまりにも心もとない約束が「アイドル」という終着点に行きつくことを信じられていない。この恐れも、また樋口の凡庸さを示すところでもあるだろう。雛菜は浅倉についていけばいいと思っているし、小糸はみんなについていくのに必死で最終的にどこにたどり着くかを考える余裕はない。樋口はなまじ客観的な視点を保持しているだけに、願いが叶うところの「海」=アイドルとしての成功に絶望している。しかし、『天塵』が恐るべきなのは、浅倉はその答えを知っているということにある。
 『天塵』で重要な転換点をなす「アンプラグド」についての解釈は思い切って省くことにする。浅倉をはじめとする小糸以外の三人がリップシンクを拒否する事態に対してプロデューサーが持つ名状しがたい感慨を思い起こすに留めておこう。第6話「海」で、樋口は浅倉が「どこに向かって走り出しているか」は分かっているとモノローグする。「浅倉にできて、私にできないことはない」と、いつも通りの浅倉に対する情念をちらつかせながら。

不確かなモチベーションを抱えたまま、浅倉は走り出す。何かが起こるはずだという確信と青い魂だけを抱えて、あとの三人も浅倉に続く。そうして迎える「ハング・ザ・ノクチル!」では、誰も見ていないステージの上で、それまでのレッスンでも仕事でもなしえなかった最高のパフォーマンスをする。花火の光に照らされて海に浸かる四人のスチルは、「願いが叶う場所」としての海と、「これまでの四人」を象徴し、なおかつ「これからの四人」を暗示する約束の地としての海が彼女ら自身を映しているようにも見え、物語の結末は筆舌に尽くしがたいほど美しく映る。そこで浅倉が言うのは、やはり「見ること」である。「花火じゃなくて、こっち見ろー」と。

結局、樋口が浅倉を語る上でなぜ「役立たずの二人称」なのかについては、ひとえに「私だけが浅倉透を分かっている」「私だけが浅倉透を知っている」と言っていながらも、自らの凡庸さに折り合いをつけられず、まさにその星のもとに生まれた存在を目にすればその奇跡を信じざるを得ないからである。樋口円香が樋口円香として語られうるのは、もっと他の要素、例えばLPで見せるようなプロデューサーとの密な関係においてより明確かつポジティブに語られうるだろう。当然、それはいわゆる「Pラブ」のような陳腐なミーム的言説に回収されるにとどまらない豊かさがあるということも付言しておくべきだろうが、ここではそこに立ち入らない。樋口円香が浅倉透と対峙するとき、そこでは樋口は自身を抹消し単なる二人称として存在する。そしてその二人称が浅倉透という奇跡を目の当たりにすることによって、また自らを自らの手によって賦活することができる。そのことは、ヴォキャブラリや位相は異なれど雛菜や小糸に関しても同様だろう。浅倉透がもたらす光と、その光に照らされた三人の煌めきこそが、プロデューサーが感じた「名前のつけられない美しさ」だったのである。


第二章:あたたかい泥、あるいは何のためでもなくそのたびごとに死ぬことについて――GRAD

 アレゴリーの持つメタファーに対する本質的な優位は、物語を駆動させるものとしての機能ではなく、物語と物語を繋ぐ架け橋として働くという点である。ジグムント・フロイトがグラディーヴァの存在を実在の人物と錯視してしまう美しい誤謬を、私たちは浅倉透に対しても錯覚しうるだろうか。プランクトンの説明から静かに物語が始まる浅倉透のGRADは、一つのアレゴリーとして傑出している。と同時に、生々しく息づく生の躍動の影に、色濃い死の香りが物語を支配してもいる。生に対する死の寓意、死に対する生の寓意が、互いを互いに補完するかのように浅倉透という存在の周りをめぐるGRADを読むことによって、私たちは今一度「死ぬように生きる」ことのかけがえのなさ、あるいは「そのたびごとに死ぬ」という生のただなかにおいて死を経験することの可能性について考えることになるだろう。

 浅倉のGRADの要点は、浅倉がそれまでやってこなかったこと――そしてそれは樋口においてもそうであったように――である「血みどろの努力」が学級委員の子の「2番だから、もっと頑張らなければいけない」という台詞に後押しされていることが前提に、浅倉とプランクトンがメタファーよりも高度な次元で、つまり寓意の関係において把捉されていることである。つかみどころがないように見える浅倉は、『天塵』においても樋口に指摘されているがレッスンでは歌詞や踊りを間違えたりする程度には(特にアイドルを始めた最初の頃は)詰めが甘いところがあったというのは、特に誤読のしようがないところだろう。WINGでそれとなく暗示されるように、プロデューサーと幼い頃に会っていた浅倉にとっては、当時見た名も知らぬ年上の少年と一緒に上っていたジャングルジムが「なんなのか」を知るために283プロに来ただけであって、アイドルになりたいとかアイドルでありたいというのは――不幸にもと言うべきか、本人の資質は本人の意思とは無関係に浅倉をアイドルという宿命に向かわせるのだが――二の次でさえあった。「わからないんだ……」とプロデューサーを葛藤させつつも、WINGを彼と共にクリアした浅倉にとって、アイドルをやるということは「のぼっていく」ことであったとひとまずは言えるだろう。
 しかし、「ジャングルジムとは何の謂であったのか」、「のぼっていく」ということはなんなのか、ということに簡単に答えを出すことはここでは避けておきたい。それは、例えば彼女の思い出の中のジャングルジムが「大人になって上ってみればなんということはなかった」という形でいずれ捨てられる梯子としての過去だったのだろうというような、ありきたりの比喩で彼女の想像力を制限することは、私たちにとっても浅倉にとっても決して豊かな帰結をもたらさないであろうからだ。もう少し私たちは慎重に浅倉透に接近していかなければならない。浅倉のGRADから私たちが受け取るべきもの、それは「何のためでもなく」自らを消尽させることの努力である。ときおりわき道に逸れつつ、浅倉透における自らをなきものにする努力と生命讃歌、そしてその裏返しとしての死の欲動について考えてみよう。

 浅倉とは違い、真面目そうな顔の描かれない学級委員長が「2番」であることに、浅倉と委員長は違う感想を持つ。浅倉が委員長が2番であることをすごいと言うと、委員長は謙遜したあとに、浅倉にどうやってアイドルになったの聞く。すると、浅倉は「なってないかも」と返す。

存在するだけで褒められる浅倉にとって、「何かをやり遂げた故の肯定や承認」を得ることは難しかったというよりかは、必要ではなかった。し、「何かをやり遂げる」ということに固有の技法と努力の仕方を知らなかった。アイドルになったことさえも、「あって思った」以上のことなしに283プロに入ったため、例えば七草にちかのような犯罪すれすれの行為を犯してまでアイドルになろうとすることは浅倉にとっては到底理解しがたい(というか、理解しようともしないだろう)ことであるはずだ。委員長が頑張って「2番」を取ったことがどこか頭の中で引っかかりつつ、翻って「赤ジャー」と呼ばれて大した努力もせずにラジオや撮影の仕事が舞い込んでくる浅倉はプロデューサーに「楽勝だから」と返す。そして、「考察」ではないと意気込んだ本稿は浅倉に対していくつかの種差的な主張を迫られるだろうが、そのうちの一つとして浅倉は自身が天才であることの悲劇に気づいていないというものがある。才能というものは、一旦持ってしまった以上それを使わなければならないという宿命のうちに置かれている。浅倉は見た目の美しさ以上に、委員長もそれに言及しているが独特の「佇まい」において人を惹き付ける。黛冬優子が醜悪なまでに自らの才能に自覚的であり、七草にちかが残酷なほどに自らの無能に打ちひしがれる一方で、浅倉は自らの「佇まい」に悲劇的にも無関心である。この悲劇性こそが、「河原100周」で浅倉が接近する死と隣り合わせの生の実感に浅倉自身を接続する契機となる。
 委員長と発表についての連絡を取り合うため、チェインを交換して「即レスするから」と約束した浅倉は、たるんでいるとしてトレーナーに河原100周を言い渡される。もちろん、プロデューサーが後で言う通り、トレーナーも本気で言っているわけではなかった。しかし浅倉はこれをやろうとする。夜まで走っても5周しか走れない河原の巨大さと、物語中幾度も反復されるプランクトンの食物連鎖に代表される自然の途方もなさがスケールの大きさとして丹念に描写される。

「頑張る」という言葉は、プラスの意味で用いられる以外に、その言葉が持つ押し付けがましさと暑苦しさから忌避されることも多くなってきた。浅倉は、しかし、走ることによって――もしくは潜在的にあったものが、走るという行為で顕在化することで――初めて「頑張ってこなかった」というコンプレックスに直面することになる。樋口の「頑張ってこなかった」が常に自身の持つ凡庸な情熱の裏返しであったのとは対照的に、浅倉の「頑張ってこなかった」は「なってないかも、アイドル」の発言に代表されるように「自身が何者なのか」という問いに対して「自分は何者でもないのかもしれない」という、樋口とは違った凡庸な暫定項を与えるものだった、という推測さえ立ちうるだろう。ここで、「河原100周」は、「頑張ってこなかった浅倉透」を「頑張れる浅倉透」にするためのイニシエーションである、というのが第一段階の推論である。ここからさらに深掘りして、私たちが浅倉透における生と死について推論から出発した創造的な「読み」を練り上げることこそが本稿の目指すところである。
 本章冒頭でアレゴリーという修辞法について触れたが、厳密な用語法はこの際置いておくとしてGRADにおけるアレゴリーはまず何よりも浅倉透とプランクトンの関係であり、それが何も賦活しない生命としてある側面においては同一であることが示されている。

浅倉のコンプレックスである「頑張ってこなかったこと」とそれに由来する「自らを何者としてでも規定できない」という二点――それらが浅倉透という人物を俯瞰して見たときに顕在化されないように見えるのは、彼女がそういったコンプレックスを普段忘却することができるぐらい自らを肯定できているからである――、特に後者の自我の規定不可能性について、浅倉はプランクトンに共感するという形で委員長の書いた原稿に対して「なんかすごい」と賛辞を送る。もちろん、浅倉はプランクトンのことを私みたいだと素朴に思っているわけではない。「名前もない、ただの命」が「頑張っている」ということを委員長の書いた原稿から読み取ることによって、「ただ生きる」、つまり生きるために生きることの美しさを自らのこととして読むという「読むこと」についての奇跡が、GRADを貫く潜在的な「浅倉透を読みうること」についての可能性として描かれているのである。そして無論のことながら、浅倉がプランクトンについて書かれた文章を読むようには私たちは浅倉を読むことはできない。その理由は浅倉とプランクトンがテキスト上で結んでいる契約からも自明のことだろう。

 浅倉の潜在的なコンプレックスは、誰かと比べてのことではない。自分が自分に対して自分を使い切ることができないという動物的な欲求不満をコンプレックスと呼んでよいのならば、浅倉の「河原100周」はある種の劣等感として読むことはできるだろう。もう一つ、GRADを語る上で欠かせないのは、コミュタイトルにも銘記されているように「息」の問題である。

息が止まれば、当然動物は死ぬ。浅倉は、ミジンコに「どきどきしてるか」と問うているように、動物が動物であることの一義的な理由としての「息」、「脈」にこだわる。息してる「だけ」ということの「だけ」という部分に、そこに彼女の「頑張らないこと」に対する引け目のニュアンスさえくみ取れる。一方で、息し「たい」だけという願望の含意が込められると、「だけ」の意味も変わってくる。浅倉の「息」に耳を澄ませてみれば、そこには生と死の往還としての「息」が見えてくるだろう。プランクトンが「息してる」というときの「息」は、人間がする「息」とはまったく異なっている。それは無数の命が泥の中で息づくところの息であり、生命を維持するために必要な作動因でしかない。しかし他方で、生命を終えた(上位存在に捕食された)プランクトンは、上位存在の中で新たな命の一部をなす。そのとき、プランクトンはかつてそれ自体だったものとしてではなく、連鎖する生命においてまったく新しい呼吸を得る。浅倉がプランクトンに見ていたのは、恐らくこの生と死の輪廻と連鎖であり、生命が生命であるだけで「死に物狂いで」息をしている美しさのことだったのだ。人間が息するのとは違って、ただ命が命であるために命を燃やすことの美しさに、浅倉は「頑張ってこなかった」自分が「何のために頑張るか」ではなく、「自分が自分であるために頑張る」という考え方の契機を受け取る。プロデューサーが「頑張ってるかは自分で決めていい」と言ったように、他人のためではなく自分の命を明日死ぬかのようにして燃やし尽くすことこそが、死と隣り合わせに生きるということであり、それに自らの力で気づいた浅倉は、よりただならぬ「佇まい」を持って私たちの前に現れるだろう。


第三章:誰とも結ばれない花嫁、あるいは手放しの肯定と圧倒的な喜劇の幕切れについて――【国道沿いに、憶光年】

 反人間的な人間の存在について考えてみよう。ヒューマニズムが私たちにもたらした弊害はあまりにも大きい。くだらなくて厚かましいモラルに従うことをやめ、超越性のもとで思考をめぐらせることの訓練を私たちは長きにわたって忘却してきたように思える。なぜヒューマニズムに耽溺してしまうのか?それはその方が楽だからである。人間の本来的な存在のありようというのは、人間の中心化ではなく、疎外を自覚するところから始まる。そして疎外を自覚した人間は、そのとき人間であることをやめ、現在私たちが生きている次元よりも高度なところで思考を可能にする。反人間を掲げることによって、人間はヒューマニスティックであるよりも人間らしくあることができる。
 あるいは、喜劇について。ショーペンハウアーの「喜劇はそれが最高潮に達したときに幕が下ろされなければならない」という箴言を思い出すまでもなく、上質なオペラ・ブッファというものは権力者がその王座から引きずりおろされ、庶民の男女が素朴な愛と勝利を歌い上げたまさにその後、「オペラが終わったあと」などないようにして終わるべきである。生きるということがどれだけ喜びに満ちていようと、どれだけ悲しみに溢れていようと、「夢が終わっても続いてしまう」のならば、せめてフィクションの喜劇の中においては爆発的な喜びの中で事切れることがもっとも倫理的なのではないか。いつまでも続く愛を歌うオクタヴィアンとゾフィーが落としたハンカチを拾う小間使いの少年が舞台からはけるその瞬間、彼ら彼女らは永遠となる。そして、優れた喜劇、あるいは悲劇も、それらは反ヒューマニズムから生まれる。「人間が何を考えるか」ではなく、「人間の手によらない不条理と恩寵に人間はどう対処するのか」を巧みに描く物語が、逆説的に人間存在の本質を剔抉するのである。そしてシャニマスのいくつかのコミュも、あまりに人間主義的なこのゲームの中で静かなアンチテーゼをなすかのようにして、反人間主義的な不条理と恩寵を描くシナリオとして位置づけられる。前置きが長くなってしまったが、「ブライダルイベント」としてリリースされた浅倉透のpSSR【国道沿いに、憶光年】は浅倉透の本質をえぐり抜いたコミュであると同時に、私たちが目にすることのできるシャニマスのカードコミュの中でとりわけ傑出したものとして記憶されるべきものである。

 第二章で軽く触れたように、浅倉にとっての「アイドルをやること」は「ジャングルジムを上ること」であり、ときおり『天塵』のようにノクチルの四人で何かを成し遂げたりすることによって「のぼっている」という実感を得ることができる。しかし、私たちは「ジャングルジム」そのものが持つ隠喩としてのポテンシャルは脇に置いておくことにしたのだった。というのも、ゲーム内において語られる過去というものが「プロデューサーに会ったことがある」という点においてひときわ特異な浅倉においてジャングルジムのメタファーと浅倉の過去への眼差しを安易にオーバーラップさせることは、単にジャングルジムをうまいこと言い換えるだけの言葉遊びに終始することになり、ゲームが私たちに要求する想像力としても、そして上に述べたように浅倉自身の想像力としても、あまり実りあるものにはならないからである。ところが、【国道沿いに、憶光年】で問題になるのも、やはりジャングルジムである。これを単にWING編からの続き物として捉えることも、当然と言うべきか、浅倉と私たちがここまで積み上げてきたゲーム内テキストの可能性を縮減してしまうだろう。ジャングルジムの「過去」性をそれはそれとして尊重しつつ、浅倉がプロデューサーに要求する「共感」の問題としてジャングルジムを包括するように【国道沿いに、憶光年】の運動について考えなければならない。
 冒頭、ローファーでジャングルジムに上っている浅倉に対して、プロデューサーは「ケガしても知らないぞ」と言う。それに浅倉は「言わなかったじゃん、そんなこと」と返す。これは明らかに「過去」、つまり浅倉とプロデューサーが初めて会ったときのことについて浅倉は言及している。

のちのち見ることにもなるのだが、浅倉は(LPにおいてもそうであるように)無自覚な破滅願望がある。GRADにおいて「頑張ってこなかったこと」を死ぬぎりぎりにおいて生き抜くということを通じてコンプレックスを解消する際、「河原100周」を実行したのも、実際のところ浅倉がどう思っているかはともかくとして擬似的な臨死体験を通じて生きていることの実感を得たいという気持ちが彼女の中にあったと考えるのは自然なことだろう。【国道沿いに、憶光年】についても、同様のことが言える。ジャングルジムに上って落ちたり撮影で転んだりすればケガをするかもしれないし、屋上にずっといれば熱中症になるかもしれないし、雨に濡れれば風邪をひくかもしれない。一つ一つのことを取ってみれば多少ケガしたり風邪をひくぐらいなんてことはないが、浅倉にとってはある種の「破滅」、「死ぬように生きる」ことの符牒性としてそれらは捉えられる。そして最も重要なのは、プロデューサーにも「一緒に」破滅してほしいという、純粋でありながらいびつな浅倉からプロデューサーに対する共感の要求である。

チャペルのプロモ動画の撮影で、ヒールで舗装されていない道を走ることを要求され、プロデューサーは浅倉がケガしてしまうのではないかと焦る。しかし、浅倉にとっては自分がケガを負わないことよりも、プロデューサーと一緒にケガをする方を選ぶ。ここに、彼女が単に「何も考えていない天才」というだけではない人格的な魅力の一部があると言ってよいだろう。樋口が常に自身を浅倉やプロデューサーに対して相対化し、「これが樋口円香なのだ」という自同性の宣言を何かに寄り掛かることによってしかなしえないのとは対照的に、浅倉はそこに佇んでいるだけで「浅倉透」であることが可能になってしまう。一方で、過去に会ったことのあるプロデューサーに対する特別な感情には自分で気づいていることが17歳の女性としてはあまりにも少ない。言語化もうまくないから、プロデューサーと意思疎通が図れないこともある。浅倉が破滅を望むのは、死を身近に置くことによって生を感じたい(=息したい)からであり、そして浅倉は死を感じるたびにより魅力的になって息を吹き返す。浅倉の内部に存在する死の欲動を嗅ぎつけることが、浅倉透というキャラクターに再度出会いなおすためのもっともよい契機であり特異な機会であることが、このコミュにおいても象徴されている。

 反人間性と喜劇は相いれないかのように思われても仕方のないことかもしれない。というのも、一般的にイメージされる喜劇とは、何か登場人物の身の上によいことが起こって、あるいは悪い者をやっつけて、喜ばしい感情を登場人物の間で共有することが物語の到達地点とみなされているからである。しかし、優れた喜劇は、もっと抽象的で、多義的な意味を孕む魂の運動の軌跡として観る者の前に現前する。人間の努力ではどうにもなりようがない恩寵と奇跡が到来し、そのエネルギーの戯れによって進行する喜劇こそが、私たちに多くを教えてくれる。そして浅倉透という女は、まさしく語の正しい意味で「喜劇的」な女である。それはいつものとぼけた受け答えがユーモラスであるという意味ではなく、浅倉透の存在自体が力の戯れなのだ。【国道沿いに、憶光年】の後半部分において成就する奇跡は、単にシャニマスがオタク向けのソーシャルゲームであるというみすぼらしい事実を超え出ている。樋口円香から見た浅倉透を、生命を消尽し尽くす浅倉透を見てきた私たちは、今こそ「喜劇としての浅倉透」を目の当たりにしなくてはなるまい。
 浅倉は、大雨の中傘も持たずに佇んでいる。それを目にしたプロデューサーは慌てながら傘をさせと言うが、浅倉はそれを拒否するどころか、プロデューサーにも傘を捨てることを強い調子で要求する。

浅倉にとって、雨に濡れるとか、ケガをするとかの事象それ自体はどうでもよい。ただ「プロデューサーが自分と同じ目に遭ってくれる」ということだけが大切である。しかし、なぜ浅倉はプロデューサーと同じ目に遭ってほしいのだろうか。幼い頃に一緒に上ったジャングルジムの記憶を反復しているだけ、という風には見えない。一つには、幼馴染四人と一緒にいる中で、浅倉と同じ宿命を背負っている者は一人としていない(残りの三人は浅倉に対する宿命を背負っている)ということは挙げられるだろう。地元のネットワークの中でがんじがらめになった浅倉は、しかし自分ががんじがらめになっていることに気づいていないが、それゆえの欲求不満を抱えてもいる。自らに与えられた宿命に無自覚なまま、それが潜在的な破滅願望となり、小さいときに出会ったプロデューサーにこれまた無自覚に自らの宿命を背負わせている。樋口が、雛菜が、小糸が浅倉に宿命を背負っているのとは逆に、浅倉はプロデューサーに宿命を背負わせている。しかも、樋口などはその宿命――何をするにしても浅倉がついて回ること――に相当自覚的で、ときに宿命によって自らをなきものにしてしまうのに対し、浅倉は何をするにしても自らの才能が自らの桎梏になってしまう宿命に気づいておらず、そしてそれゆえにプロデューサーを浅倉自身に縛り付けている。この構造が、浅倉のプロデューサーに対する情念の一端を担っているということにしておこう。そして浅倉透についてあらかじめ不可能な理解を留保つきで推し進めるにあたって、この構造を立てておくことは少なからず論全体に好ましい影響を与えるだろう。
 いよいよ物語はクライマックスに突入する。WINGで浅倉のつかみどころのなさに振り回され、このコミュでも浅倉が何を考えているか分からなかったプロデューサーが、浅倉との対話で彼女と深いところでつながるに至る。GRADで「頑張りたいんだな、透」と浅倉の無自覚な劣等感に触れたあとのプロデューサーは、そういった劣等感も込々で、それでも「行け」、「走れ」と浅倉に叫ぶ。むきだしの青い魂としての浅倉透に、「一緒に濡れてやる」が、「危ない目に遭わせない」、だから「追われてくれるか」と問いかけるプロデューサーもまた、浅倉の孤独な魂に呼応する魂である。

「追われてくれるか」は当然、pSR【まわるものについて】の「追ってるかもしれないじゃん、私が」の浅倉に対するアンサーであることは明確だろう。プロデューサーは、ここで初めて浅倉の破れかぶれさを客観視することなく、自らも破れかぶれであろうとする。【ギンコ・ビローバ】で樋口に「そのスーツが破れてしまえばいい」と言われたプロデューサーは、浅倉に対して――そしてもちろん樋口に対しても――スーツを破ったのだ。浅倉が誰のためでもなく、自分のために花嫁姿で走り出すとき、彼女は超越と口づけを交わす。そしてそれを追うプロデューサーもまた、浅倉のためですらなく、自らのために魂を燃やすのだ。そのようにしてしか通じ合えない魂というものがある。そのようにしてしか可能にならない魂の態度というものがある。私たちが浅倉透とプロデューサーに負うものとは、単なる対話による互いの言葉のコノテーションの共有ではない。深く沈潜した精神において自己の本来的なありようを取り戻し、それを他者に対してときにむきだしにすることの暴力性を暴力として祝福することこそが、浅倉透が私たちに教えることである。「裸足でこい」と呼びかける彼女は、プロデューサーに呼びかけている以上に、私たちプレイヤーの首根っこを掴んで問うている。お前はむきだしなのか。私の景色がお前に見えているのか。お前の景色を私に見せることはできるか。すべてははじまったばかりである。浅倉透という比類なさを目撃した私たちが最後にすべきこととは、いったいなんだろうか?


終章:4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて

 批評家の花田清輝は、結局どんなに年を重ねたところで、「女の顔」を描くことはできないということをバルザックをもてあそぶようにして書きつけている。私たちは花田に倣って、どんなにシャニマスをプレイしたからといって、アイドルの顔を描くことはできないと書きつけでもしようか。私たちが述べてきた浅倉透についての記述は、浅倉透を極力内在的に描出しようとしつつも、その多くをソーシャルゲーム内の美少女に当てはめるにはいささか大仰すぎるレトリックを用いざるを得なかったこともまた、認めなければなるまい。思想家や文学者の引用をせず、なるべくシャニマスのテキストに即して書くという態度決定でさえもが、逆説的にシャニマスそれ自体が引用の織物であることを示している。改めて問おう。私たちは浅倉透に何を見たのか。そして、私たちがシャニマスをプレイするにあたって取るべき態度とはいかなるものなのか。
 私たちが普段「あなたはどんな人なの?」と胡乱にも誰かに問いかけているとき、私たちはその問いかけている誰かに「お前はこういうやつだろう」というある種の先入観で決めてかかっているがゆえに、「私はこういう人間です」という相手の宣言をある程度制限している。それと同じように、私たちが「浅倉透とはどういう人間なのか」を記述する際に、私たちはある程度共有されたイメージで浅倉透のことを決めてかかっている。浅倉に直接聞ければ話は別だが、彼女はキャラクターなので当然そういうことはできない。私たちが集合的に作り上げる無意識としてのキャラクター造形が二次創作を豊かにするのだし、結果としてまったく本編と関係のない別人のような樋口円香や黛冬優子が生まれることになるのだが、今はそれは置いておこう。ともかく、浅倉透を考えるときも、他のキャラクターを考えるときも、必ず臆見というノイズは混じる。これが「私だけの浅倉透」を形成するにあたっての困難を生じさせていることは、ここまで読んでくださった読者の方には明らかだろう。本稿の目的は、「浅倉透がどんな人間なのか」という問いに答えることではない。冒頭でも述べたように、「テキストを読んだらこんなことが書いてありました」という「考察」から一歩進んで、「どういう読み方が可能なのか」という「印象」とそれを伝える技法の呈示が最終的な目的である。当然、浅倉透についてもっとうまいことを言えるとか、もっと面白く書けるという人はいるだろう。そういったある種の「うまさ」というのは、ひとえに問いの立て方とその敷衍の技法において卓越しているということである。私たちが浅倉透から得たものを列挙してみよう。恩寵、魂、生きること……浅倉透において種差的であることに十分留意しながら論を進めたつもりだが、当然同じゲームなので浅倉透において種差的であったはずのものが他のキャラクターについても同じことが言えるということも当然ありうるだろう。しかし、どんなにキャラクター間の差異を厳密に跡付けていったところで、最終的には「作品」としての秘められた同一性にすべては帰着する。そしてそういった同一性を敏感に嗅ぎ分けないことには、キャラクター間の差異にすら鈍感になってしまうだろう。今後私たちが緋田美琴や幽谷霧子について何かを言うときにも、差異を見据えつつ根底にある同一性に目配せをすることが何よりも――それを「考察」に終わらせないためにも――重要となる。
 シャニマスというゲームとそれにまつわる言説が今後どう展開していくかについて、私たちは悲観的な応答しか用意できそうにない。音楽ゲームのリリースによってますますキャラクターはフェティッシュになっていくだろうし、オタクは萌え豚以上のリアクションがどんどんできなくなる。正直なところ、この文章の書き手はコメティックにもあまり期待していない。キャラクターをどう見せるかの丁寧さは失われ、あるのはフォアグラを作るときのダチョウよろしく無限に供給される情報を取り込んで無批判に肥えていくオタクの亡骸である。私たちは、フェティッシュに終わらない物語解釈を情報の洪水によってやめるべきではないのだ。「なぜこのキャラクターに惹かれているのか」という自分だけの問いを、「尊い」「エモい」などといった幼児のぐずり以下の語彙で終わらせることなく構築することが、気持ち悪いと迫害され周縁に追いやられてきたオタクの最後のプライドであったはずである。まだシャニマスには語られるべきことがたくさんある。この文章が最終的に目標とするところ、それはあらすじや「謎解き」に満足することなく貪欲に自らの立てた問いに答えようとし、あなただけの「100パーセントの女の子」のためのかけがえのない言説をあなたの手によって編みなおすきっかけとなることである。浅倉透と巡り合った以上、私たちは何かを言わずにはいられなかった。私たちの、私だけの「浅倉透」を誰にも邪魔させないという気持ちが第一義的な本稿の衝迫ではあるが、一方で冷静に彼女を言語化したいという欲望によって本稿は支えられてもいる。
 このいささか長すぎた浅倉透へのラブレターもそろそろ終わりに近づいているようだ。私たちは二次元の美少女に覚めない夢を見る。彼女が私たちに残してくれたもの、それは超越を介して所与を愛することである。浅倉透という女性に喚起される欲望が、つねにすでに普遍的かつ特異的であることを願って。あなただけのシャニマスが今まさにここから始まる。何かを始めるということ、何かが始まるということは、往々にして他者が思いがけず中断したメモの切れ端から連綿と言葉が続くようにして始まっていくのである。そして取るに足らないと思われたことに、思いがけず哲学や文学の光が灯っているのを、ゆめゆめ見過ごしてはならないのだ。


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