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唇は赤の哲学

赤の口紅をずっと探していた。

店先で見かければ手にとってみて、時に柔らかい筆先ですっと色をのせてもらったりもして、

それでももう何か月も、何年も、これという赤色には出会えずにいた。

少しずつ、何かが違うような気がして。


深く黒の混ざったような、ヨーロッパのマダムみたいな赤色とか

あるいは中国の美女めいた、朱色に近い赤色とか。

美しい艶のあるものから、寝起きのようにそっけない質感まで

あらゆる赤の口紅を、自分の唇にのせては落とす日々だった。


**

「赤の口紅」

その言葉だけを胸にしまって、まだ見ぬ赤色を探し続けるのは

なんだか哲学者みたいだと、ある時から心のどこかでそう思い始めた。


”わたしが見ている赤色は、あなたが見ている赤色と同じなのだろうか?”

昔どこかで聞いたような、そんな命題が頭の中で鳴っていた。

それぞれ少しずつ違う赤色がいくつもあって、

それぞれ見え方の違う私たちがいて、

それで世の中には無数の赤色が存在しているのだと思うともう、なんだか気が遠くなりそうだった。

それはもちろん、楽しい気絶でもあるのだけれど。



それでもわたしは自分の赤色を探して、ことあるごとに懲りもせず赤色の口紅を手にとって

また何か月も、何年も、そんなことを繰り返して。

ある日突然、ほんとうにふいに

まるでなんの違和感もない赤色をついに見つけたのだった。

よく晴れた平日の午後、きらきら光る百貨店の真っ白な椅子の上で。


**

「非常事態」という名前の赤色だった。

深すぎるほどに深くはなくて、明るすぎるほどに明るくはない。

すごく色気があるわけでもないし、すごくコケティッシュなわけでもない。

それでもその赤はわたしの顔色にぴったりと似合って

パーティーだろうが海辺の家だろうが、不思議とどこにでも行けそうな気がしたのだった。


目を惹くのに溶け込んでいる。

なんでもなさそうなのについ見てしまう。

そんな唇をいろどる赤色に出会って、

わたしはもうこれ以上何も探す必要はないと、ようやく赤色探しをやめた。

わたしの赤色はここにあると、ようやく確信できたから。



**

赤の口紅を探して歩く、女の子はみんな哲学者。


わたしの見ている赤色が、あなたにとっての赤色とは限らない。

あなたに見えているその赤色が、わたしにとっても魅力的だとは限らない。

それでも赤色という特別さは、私たちのことをいつだって惹きつけて止まないのだ、きっと。


そう、唇は赤の哲学だ。

それを心に知りつつも、私たちは唯一絶対の赤色を諦めたくはない。それを見つけられるって信じてる。

だから哲学者のように深淵なる顔をして、

女の子たちは今日も赤色を探してる。






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