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生きづらさと偶然性について

「生きづらさ」と無数の半径5メートル

生きやすい。
そう言うひとはあまりいないけれど、自分については昔と比べて相当に生きやすくなったと振り返って思う。

「生きづらさ」について、毎日誰かが何かを言っている。

この言葉が使われるようになったのは確かここ20年くらいのことだったと思うけれど、このところ世の中を指した「生きづらい」という話題には枚挙に暇がなく、実際に生きる難易度が上がっていく世の中であることに加え、今まで抑圧されてきた声がようやく日の目を見たというケースも多分に含まれているように見える。

新自由主義、グローバリゼーション、性差別を含む差別、核家族、非婚化、日本経済の地盤沈下、終身雇用の崩壊、氷河期世代、人口減少、高齢化、社会保障制度の限界、貧困、階級社会、、、

市場原理の吹き荒れるこの時代にあって、滅びゆくもの、栄えていくもの、変化の速度はあがっているように感じる。
先日改元という象徴的な出来事があったけれど、未来というのはひとつひとつまだら状にしか訪れないものだ(日本国内にはいまだに光回線すら通っていない地域もあることを、昨年旅に出て知った)。
時代の変化をキャッチして適応していく世界もあれば、沈みゆく船に残されていく世界もある。

私の職業の話をさせてもらうと、内職や倉庫の日雇い派遣や郊外の食品工場、ITベンチャーや某R社から有名日系商社まで、あちこち渡り歩いて今はグローバル企業の一角に腰を落ち着けている。

「社会」や「世の中」という言葉はあまりにも大きく、決して一枚岩ではない、というのが私が30数年生きてきて覚えたことだ。
半径5メートルの世間が無数に存在しているというのが実際のところだろう。
あまりにも違うそれらの差は、あるひとあるときにとっては残酷であり、あるひとあるときにとっては救いにもなる。

「リラックマとカオルさん」が見つめた日本

最近話題のNetflixオリジナル作品に「リラックマとカオルさん」がある。

主人公のカオルさんは、業績悪化で人員削減やボーナスカットを行うような斜陽の日系商社の庶務課に、おそらくプロパー一般職として勤めていて、そのリアルな現実の厳しさと「取り残されていく」に始まる心の闇の描写(と、リラックマの癒し)が話題になっている。
「東京のどこかにいそうな生きづらいOL像」をここまで丁寧に描いた、おそらく脚本家のマーケティング力には参りましたと言う他ない。

具体的な展開は見ていただくのがいいとして、繰り返されるメッセージのひとつに「変わらないものは何もない」というものがある。
閉塞し沈んでいく船に取り残されているような心地がしても、あるいは変わらずにあった日常を愛していても、変化のときは訪れるのだ。
物語ではひとつの喪失が、新しい可能性に繋がっていく。

カオルさんがいたのに似た世界を見て来たけれど、過去において未来へ逃げ込んでしまった。でも本当は今もカオルさんがいる世界と近いところにたくさんの日本人女性が住んでいることを忘れそうになる。

九鬼周造「偶然性の問題」

凡そ偶然性とは実存へ偶然すると共に実存に対して実存の機縁を呈供するものである。実存は偶然を殺さずに生かさねばならぬ。与えられた偶然を実存の出発点としなければならぬ。実存とは与えられた偶然を踏板として高踏するものでなければならぬ。(九鬼周造「偶然性の問題」より)

人生には色々な時期があり、色々な事件が起こるものだなぁと思う。
死ぬまで続くかに思われる日常は、不意に壊れる。

不可能性の海の底から偶然性の事件が突き上げてくるとき、実存が立ち現れる、と九鬼周造。

思えば病に臥してこの国で最悪レベルのスティグマを負うという絶望的な状況を、病歴オープンでの転職を通じて起死回生のチャンスに変えることができた。
今の私は病前より遥かに生きやすい。
病気にならなければ今の幸せはなかったのだと気づく。
私は「与えられた偶然を踏板として高踏」したのだ。

生き延びると、オセロのように出来事の意味は変わる。
何度そう思ったことだろう。

ずっと生きづらいままでいる必要もない

今生きづらさを感じているとしても、望むと望まざるとに関わらず、時代は変わっていくし、誰しも永遠にそのままではいられない。
社会は一枚岩ではなく、絶望もあれば希望もある。

ずっと生きづらいままでいる必要もない。

生きづらさを改善するヒントを集めていくことはできないかと思い、「生きやすい。」というマガジンを作ることにする(不定期更新)。

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