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『非日常』が『日常』になったお話。|オーイシ武道館と、洗濯板と。


こんにちは。ネコぐらしです。

昨日、大好きな友人たちと一緒に #オーイシ武道館 のライブビューイングを楽しみました。


私自身、オーイシさんのコアなファンではなかったんですが、視聴後はすっかり心を奪われてしまった…。

正直に言えば、テレビアニメの「グリッドマン」の主題歌で初めてオーイシさんお名前を知り、その後「オーバーロード」でのタッグ「OxT」の楽曲をちょこっと聴き込んだくらいです。まさか「ジャパリパーク」や「サインはB」の作詞作曲まで担当されているとは知りませんでした。お恥ずかしい限り。今はオーイシさんの過去をしゃぶりつくすように全力で推し活中。

聴いていて思ったのですが、ライブのセトリって、運営やアーティスト自身が「一番イイと思うコト」が如実に反映されているんですよね。今の彼らが思い描く最高のラインナップ。きっと今回のライブは、ファンの思い描くラインナップともキレイに重なったがゆえの化学反応もあったことでしょう。

もしかしたら、自分の好きなアーティストを増やしたい時は、公式webサイトや大ヒットアルバムから探るより、ダイレクトにライブを観に行くほうが推し活ロケットスタートのカンフル剤になるかもしれませんね。

きっと「ライブ」って「最良のポートフォリオ」

※めっちゃアツイレポートnoter様がいらしてのでこっそりと引用させて頂きます。⇩
ネコぐらしのように惜しくも会場のチケットはハズしてしまった方は、ぺーぺーさんから会場の雰囲気をおすそ分けしてもらいましょう…!

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さて、ライブビューイングといえど、かけがえのない体験です。間違いなく最高の時間でした。ライブを大成功に収めたオーイシさんから、明日への多大なる活力をもらいましたし、実際いろんなパワーが溢れてきます。もっと自分らしく、もっと輝かしく、一日一日を噛み締めながら生きていきたいと、強く願えるほどに衝撃的な経験でした。

スキなもの、大切なものが増えていくのは心地がよいことです。
きっと、それは「だれかの人生の一部」を自分の中に取り込む行為に近いからでしょう。
今回のライブを成功させたオーイシさんは、12年の歳月をかけて武道館という夢のステージに立ちました。

共に歩んできた014スタッフ。
ダンサーとして登壇したREAL AKIBA BOYZ
ずっとタッグを組んで夢を追い続けたTom-H@ckさん。

特に、インターバル中のぺしゃりタイムで「すまん、今、目合わせたら泣いてまうわ」と語ったオーイシ x Tom-H@ckの一幕は、私の目頭を大いに噴火させました。

間違いなく、彼らアーティストたちの人生が、私の心の隙間に収まった瞬間です。それまでただの知的好奇心を埋めるだけの知識に過ぎなかった欠片が、肉付けされて確かな実感になる。がらんどうで空虚じみた「無遠慮なスキ」とは違う。しっかり体の一部に、強いていえば魂の一部になっていく。そんな感覚があったのです。早い話が「めっちゃ共感しました」です。(もしくは共感したいって気持ちが爆発した。)

・・・

今回のライブを通して、一つ学んだことがありました。

それが今回の題名にもある、
『非日常』が『日常』になった
ってお話です。


ライブって、ある意味「非日常」的なイベントです。武道館クラスともなれば、その「非日常」感は筆舌に尽くしがたい。


ですが、日常と非日常って、そもそもどんな差があるでしょうか。

私はたまに考えるのです。「非日常」って人間の空想が具現化した存在や時間のことなのだろうか。じゃあ「日常」は空想で思い描いてるけど、実現できていないモノや時間をいうのだろうか。いろいろ思い至っては自問自答。でもどこか正確ではない気がするのです。

だって私達が普段扱っているスマートフォンやPCだって、人間の空想から始まったもの。フォン・ノイマンという天才さえも恐れる天才がコンピュータの基礎を気まぐれに作り出したことで初めて、時間的な距離から脱却できた。

例えば私の好みオンラインゲームでも、ボタンをパチっと押せば、相手がポルトガル在住だろうがカナダ在住だろうがたったの1/6秒足らずで「ボタンを押した」って情報が届く。共有される。
冷静に考えてみれば、これが絵空事でなくてなんだというのでしょうか。
実質的に「誰かの存在」と「誰かの時間」が、電子の海に限りなく圧縮された世界。現世にハイデガーが存命していたならば、ぶったまげてしまいそうなものです。


そんな世界での「非日常」は一体どこにあるのか。つい考え込んでしまう。
最近はただただ仕事をしているだけでも、非日常の連続です。AIがスキーマを書き、議事録を挙げたり、スケジュールだって調整してくれる。プログラミングだってお手のもの。口コミで食べたことのない料理の味を推し量ることもでき、一歩も動かずとも目的地への到着時間を想定できる。ついには映像すら創り出してしまった。

私はよく、
過去に叶えられなかった「非日常」は、イマの「日常」
と、そんな結論にたどり着きます。

すると面白いことになんですが、一つ逆説的に考えられる事も増えるのです。

過去にあった当たり前の「日常」は、イマの「非日常」
でもあるのではないかと。


ああそうか。「非日常」ってディズニーランドみたいに一定じゃないのか。その時の時代背景や社会情勢によってカタチが変わっていってるんだな、と。これが個人的にしっくりきました。

・・・

じゃあ過去の当たり前の「日常」とはなんだったのでしょう。

洗濯板でゴシゴシと洗うのが日常、ジブリに出てくるような手漕ぎ式ポンプで水を組むのが日常、防災頭巾を椅子の下に仕込むのが日常、自然の中で狩猟生活を送るのが日常。
月並みですが、「時間をかけて丁寧に精一杯暮らす」姿が、過去の日常なんじゃないかと想像します。

noterさんの中に「海外生活で洗濯板を使うこと」を取り上げている人がいました。

こういった記事を読むたび、情緒を伴った感情がぽつりと心に湧き出る。最初は一種のノスタルジーなのかと思いました。ですが、私自身に洗濯板を扱った記憶はありません。「遺伝子に刻み込まれているんだ」ってスピリチュアルを盲信しているわけでもない。『オールウェイズ 三丁目の夕日』を目にした時の、あるはずもない記憶が回帰したような、この気持ちはなんなんだろうと。


ふと、気付いたのは、
「ああ、これって”過去の日常”への憧れだ」
ってことでした。


かつては音楽や踊り、民謡などはごく当たり前に日常の中に溶け込んでいました。
火を囲み、お酒を飲み、歌を歌い、踊りを踊る。
たまたま通りかかったさすらいの「吟遊詩人」が、木彫の弦楽器を取り出してそこに色を加える。今であればファンタジーみたいな光景が、過去は当たり前に人々の生活に染み付いていました。

日本であれば、民藝を象徴する文化として「田植え歌」があります。

トラクターも芝刈り機もない時代、手作業での田植えは、当時の女性自身の体力を考えてもかなりの重労働。作業時間も果てしないものです。

そんな労働を少しでも軽くしようと思い立ち、創られたのが田植え唄。識字率の低い時代であっても、田植え唄は愛され、文化として民衆の中に確実に定着していった。

なんでも「田植え唄」専属の男性芸者もおり、田植えの時期には出張公演のように赴く仕事も成立していたのだといいます。
「田植えをする誰かを楽にしたい」と思い描いた空想がカタチを成し、「退屈な日常」を「豊かな非日常」に変えたのです。


洗濯板の話でも同じコトが言える。
服をピカピカにすることで家族が少しでも気持ちのよい思いをして過ごしてほしい。そういった、静かでどこか執念を感じさせる温かい心が、日々の繰り返しの作業を支えるモチベーションに繋がっている。

「この服を着る誰かのコトを想いながら、洗濯する」なんて、すくなくとも今の私からは、とうに消え失せてしまった感覚。自分の感情の喪失にふと気付づかされました。いや、もともと生まれた瞬間から洗濯機はこの世にありましたから、多分この感覚は「元から持っていない」

だからこそ、「憧れる」のです。
誰かのタメを想う時間が、私の目にはどこか遠く映る。

・・・

「非日常」に慣れていくことで、だんだんと当たり前の「日常」に変化していく。そうして、人はどことなく停滞を感じるのでしょう。だからこそ新たな「非日常」を発見するため、せわしなく思考の旅に出かける。

ありとあらゆるテクノロジーに溢れた現代では、恐ろしいほどに新陳代謝が早いサイクルの中での生活を余儀なくされます。「日常」からの「非日常」、そしてすぐさま「非日常」が当たり前に「日常」に更新される。もはや変わり続けることが「日常」になっているのでしょう。

私の憧れの素でもある「確かに変わらないこと」が、現代においての「非日常」なのだとスッと心に染み入りました。

音楽や踊りって、昔から変わりません。
いえ、クオリティとか、作曲方法とかはべらぼーに変わっています。DTMの普及と合わせて、現実にありえない音すら扱えるようになり表現の幅は爆増しました。

でも、本質的にはかわっていない。
いつだって、誰かの心と心を繋いでくれる。応援してくれる。励ましてくれる。時代も越えて、場所も越えて、そういうパワーに満ち溢れている。
過去の名もなき吟遊詩人や作曲家達。
現代ではアーティストと肩書を代えつつも、「日常」を「非日常」に変えようとする意志を曲げないまま、イマに脈々と受け継がれていっている。

だからこそ、アーティストのライブというのは「過去の日常」であり、「イマの非日常」なんだ、と。

そんなふうに、洗濯板とライブが「憧れ」って共通項を通じて、キレイに頭の中でくっついた気がするのです。

・・・

…さて。

ここまで長々と語ってきましたが、実はこれは「私が本当にしたい話の前座」にしかすぎません。
ただ、さらに長くなりそうな予感がするので、本筋については。次回の記事で触れていきたいと思います。

次回のタイトルは『幸せの受動喫煙』のお話。
※(2024/3/4更新 ⇩記事かきました⇩)

では、ここまで読んで頂きありがとうございました。
また次回お会いしましょう~。



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