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【5つの物語】2. みかとマリー #1

みかがホテルに着いた時にはもう真夜中を過ぎていた。ヘルシンキからブリュッセルまでのフライトにセキュリティ上の問題が発生したとかで、出発が遅れに遅れたのだ。部屋に入ってドアを閉めるとベッドに身を投げ出した。ああ、疲れた。こんなことならブリュッセルには寄らずにヘルシンキから成田に帰国する予定を組んでおけば良かった。数年前にはテロもあったし遅延は止むなしか、今日飛んだだけましと思おう。そう思い直しているうちにそのまま眠りに落ちそうになったみかは、慌てて身体を起こした。せめて着替えてから眠ろう。明日は朝寝坊してゆっくり出掛けよう。行きたいところは一つだけだ。

翌日の昼前にホテルを出てブリュッセルの中央駅に向かった。秋も深まったヨーロッパには珍しく、その日は晴れ渡って浅ばむほどだった。駅から郊外行きの電車に乗った。乗客はまばらだった。終点まで1時間だ。みかは窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めながら思い出していた。あの日も電車に乗ってある街に向かっていた。窓から目を逸らして車内を見渡すと、一組の親子連れが目に入った。若い両親と 7、8歳の女の子が向かい合って座っていた。みかは女の子と目が合った。その子に笑いかけようとしたその時、いつかどこかで見た情景を思い出した気がしたが、次の瞬間車内にアナウンスが響いて記憶がかき消されてしまった。

やがて終点の駅に着いた時、親子連れはいつの間にかいなくなっていた。途中の駅で降りたのだろう。駅名に大学の名前がついているとおりその街の中心は大学で、みかの目的地もその大学の構内にある美術館だった。駅から歩いて5分くらいで大学に着くと、現代的な建物がキャンパスを彩っていた。目指す美術館はすぐに見つかった。モダンアートのような建物にお目当のイラストが描かれていた。そこはベルギー生まれの世界的な漫画家の美術館だった。みかが高校生の頃電車に乗って1時間かけて遠くの街の大きな書店に洋書を買いに行ったのが、その漫画家の代表作だった。多分あれが初めて買った洋書だわ。そんな思い出に浸りながら美術館の入り口に立ってトレンチコートを羽織った漫画の主人公の少年の後ろ姿が描かれた大きなイラストを見上げていると、みかは不思議なことに気づいた。駅を降りてからずっと人のざわめきが聞こえて来ないのだ。キャンパスには学生達がたくさんいたし、この美術館にも多くはないが来場者の姿が見える。それでもまるで世界から時間が消えたかのように静かなのだ。みかは今はいつでここは何処なのか定かではなくなるような感覚に囚われて行った。そして何より不思議なことは、自分がその感覚に違和感を感じていないことだった。

「ねえ、さっき電車に乗ってたでしょ。」みかが振り返ると先程見かけた女の子が立っていた。何だかますます不思議なことが起こりそうな気がした。


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