見出し画像

バベルの塔と歌うたい #6

紗羅はこれまで無理にでも冷静に現状に向き合おうとして来たが、この粘土板によってそんな気持ちも打ち砕かれていった。やっぱりここは古代の街なんだ。文字からするとメソポタミア辺りだろうか。この現実を前にして紗羅は完全に思考が切れてしまった。しばらくただ呆然とそこに座って粘土板に刻まれた楔形文字を見つめていた。そのうち心が過去の記憶の中を漂い始め、そして一点に集中していった。

紗羅は大英博物館でロゼッタストーンを見つめている。それは1年前の記憶だ。子供の頃は考古学と言語学に関心がありシャピニオンの偉業に憧れ尊敬していた。いつか本物を見てみたいという念願が叶い、今その前に立っている。実物を見て紗羅はこれまでとは比べ物にならないくらいシャピニオンやこの石碑の解読に挑んだ人々への畏怖の念を持たずにいられなかった。生涯をかけて謎に挑みとうとう成し遂げたのだ。それがどのくらい壮絶で難解な研究であり挑戦であったのか、ロゼッタストーンの大きさと刻まれた3種類の文字の細かさを前にすると想像を絶するものがあり、気がつくと涙が溢れていた。シャピニオンは文字通りこの碑文に人生を捧げ若くして亡くなった。紗羅は彼を羨ましいと思った。自分にその才能がないことは分かり切っていたが、それでも言語の謎に挑む人生を送ってみたいと思ったのだった。

気がつくと紗羅はまだ粘土板を握りしめていた。ヨゼが心配そうに横に座っている。部屋のあちこちをキョロキョロと眺めながら黙って紗羅に寄り添っている。決心した。この子と一緒に文字を学んで行こう。私はシャピニオンにはなれないけど、彼も人間、この文字を刻んだ人も人間、そして私も人間だ。彼らに出来て私に出来ない訳がない。そう自分に強く言い聞かせることで自分を信じようとした。紗羅はヨゼに向き合って粘土板の右上に刻まれた文字を指差した。ヨゼは首を振った。2人の学びの始まりだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?