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バベルの塔と歌うたい #1

理解出来ない。紗羅は物心ついてからこの方、父のことも母のことも、家族の誰のことも理解出来た試しがない。それが家族ってものかと漠然と思いながらも、どこかに理解し合う家族がいるんじゃないかと思って生きてきた。ところがある日、家族で出かけたレストランで見知らぬ家族が食事する光景を眺めていて突然気がついた。ひょっとしてみんな理解してないし、出来ないと思い悩む方が変わってるのか。

そのうちに、家族以外の誰のことも理解出来ないことに思い至ってからは、もはや自分だけ話す言語が微妙に違っているような気すらし始めた。この現状を突き詰めたらきっと精神を保っていられないと危機感を覚えた紗羅は、発想を転換することにした。こう思うことにしたのだ。人との会話を装いながら実は一人歌っているのだと。それから紗羅は正気を保つために一見必要な会話を交わす日常を送りながら、そういう時は音程とリズムを保つことだけを意識するようになった。中身なんてどうでも良い。歌詞なんて誰も気にしちゃいない。ただ、調子に乗って心地良く響けばそれで良いのだ。そうやって人と接するようになってから、不思議と学校でも友達が出来た。職場ではしばらくは抵抗を試みた。論理性のない会話から生産性のあるビジネスは生まれるわけがない、そう信じたかったのだ。しかしながら、特に組織内部の人間同士の交流においては、論理的合理的な話をすればするほど孤立していくのだった。止むを得ず例の方法を実践するようになると、今度は評価も高まりポストも回って来るようになった。中身なんてどうでも良かったんだ。気づいて良かった。いや、本当に良かったのだろうか。本当にそれで良いのだろうか。本当にそれで。

時々懐疑的な気持ちになると、紗羅は哲学書に逃避して少なくとも自分の思考だけは論理性を保とうとした。そうやってやり過ごしながら思うことは、世の中大半の人達は、自分以外の誰かを理解出来なくても、自分の話を理解してもらえなくても、会話すら噛み合わなくても、何の疑問も苦悩も持たずに生きて行けるのだという事実についてである。それは紗羅にとっては驚異に他ならない。でも、今の自分は自分の編み出した言わば処世術によって、そういう人達の中に身を潜めて生きている。透明人間になったような気分だった。あるいは見えてはいるけれど認知されないような、車道脇の40キロのスピード制限標識みたいなものか。誰も気にしちゃいない。誰にも脅威と見做されることもない。それが世渡りというものだとして、それで良いのだろうか。本当にそれで。

惰性というのは麻薬のように人を蝕むらしく、紗羅の疑問はいつしか思考に上ることも少なくなり、ただメロディとリズムを取りながら適当な言葉を乗せて歌う様な生活が日常になっていき、やがて疑問そのものを忘れかけていった。

そしてあの日がやって来た。



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