【5つの物語】1. ゆりとジョシュ #3
「ジョシュはピアノが好きなの?」
「うん、好き。ピアノ教室にはシャム猫がいるんだよ。僕たちがお稽古してると部屋に入って来たり、別の部屋に行きたい時はニャアって鳴いて、そしたら僕はドアを開けたりするんだ。先生はもうおじいちゃんとおばあちゃんで、優しくて楽しいよ。教室の歌もあるんだよ。クリスマス会もしたよ。」
「そう。すごく楽しそうね。やっぱりピアニストになりたいって幼稚園で先生に言ってみる?それとも言わなくてもそう思ってお稽古する?」
ジョシュはそれから暫くゆりから目を逸らして窓の外を見ていた。相変わらず両足を前後に揺らしていた。程なくして電車が次の駅に停車すると、不意に立ち上がってゆりをまっすぐ見つめて言った。
「やっぱりもう一回先生に言う。ほんとはピアニストになりたいって。なれなくても良いんだ。でも嘘は嫌だ。」
「そう。それが良いかもしれないわね。うん、それが良いわね。」
これは私がしなかった選択だ。それを追体験させられているのか。たとえジョシュが誰だろうと私が過去に行った選択は変えられない。それにこんなちっぽけな選択が人生に何か影響を与えたとも思えない。私はピアニストにはならなかったけれど、それは才能がなかったからだ。ピアノは10年やったがそれを職業にするなんて程遠いレベルだった。それから長いことピアノには触れずに生きて来た。でも何故かしら、最近弾きたいと思うことが多くなった。いや、本当はずっと弾きたかったのだと思う。才能なんかなくてもピアニストになれなくても、ただただ弾きたかったのだ。下手な自分に向き合う勇気がなかっただけで。
「じゃあね。」
「ええっ⁉︎ここで降りるの?さっきどこにも行かないって言ってたのに。」
「どこにも行かないよ。でもここでお別れ。」
「そっか。会えてほんとに良かった。」
ジョシュはドアのところで振り返って、顔いっぱいの笑顔でゆりに手を振った。いたずらっ子のような無邪気な笑顔だった。ホームに降りるジョシュに向かってゆりは意を決して呼びかけた。
「ねえジョシュ。あなたの通ってるピアノ教室の名前は?」
「すずらんピアノ教室だよ。おじいちゃん先生とおばあちゃん先生がゆりによろしくって。」
ゆりは泣いていた。そして顔をくしゃくしゃにして笑いながらジョシュに手を振った。
「ありがとう!」
電車がヘルシンキの中央駅に向かって動き出した。ゆりはスマホで電子ピアノを探し始めていた。
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