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【5つの物語】3. えりとヨウ #3

龍山寺を出る頃には身体が冷え切っていた。今日はとても寒くて雨も降り出しそうな雲行きだった。えりはこれから次の行き先に向かおうと、道の向かいにある駅から地下鉄に乗った。台北駅に着いて特急列車に乗り込んだ時は夕方近かった。これから九份に向かうのだ。山の中に広がる路地をそぞろ歩いて夜の老街の賑わいを楽しむつもりだが、あいにく車窓から見える景色は雨に濡れていた。まあいいか、雨の街並みも趣があるだろうし。そんなことを考えながら電車に揺られ、最寄駅に着いた時にはすっかり日も暮れて雨も本降りになっていた。

駅からタクシーに乗って海沿いの曲がりくねった坂道を走って行くと、雨に濡れた山際にいくつもの鮮やかな光が灯り、妖しげに闇から浮かび上がる街並みが見えて来た。九份に着くと台北市内と同じように大勢の観光客で賑わっていた。狭い坂道や急な階段を登り降りしながらあちこちの路地を巡り、道々に連なる商店の前を通り過ぎて行くと、やがて眼下に海を臨む山際に出た。

人混みを避けたかったえりは老街を外れて人気のない道を歩き始めた。右手には海沿いの道まで切り立った崖が続き、その向こうに黒く光る海が横たわっている。雨脚は強くなる一方で、あんなに賑やかだった人の群れもぱったり途絶えた。見通しの良い場所に出るとえりは海を見下ろして考え事にふけった。今し方老街で人の波から外れて路地に入ろうとした時、一瞬足がすくんで背筋が寒くなったのだ。その時、不意に後ろから誰かにコートを引っ張られた気がして振り返ると、そこには先程龍山寺で会った男の子が立っていた。

「あら驚いた。さっきも会ったわよね。」

「うん。そっちに行かない方がいいよ。」

「日本から来たの?私もよ。お名前は?私はえり。」

「ううん、ここに住んでるよ。ママが日本人。僕はヨウ。」

「そう。だから日本語が話せるのね。あっちにはお店はないのかしら。」

「知らない。でもあっちには行っちゃだめ。」

「そう。雨で滑るからあんまりあちこち行かない方が良いかもね。ありがとう。」

そこまで話して、えりはヨウと名乗るその男の子の家族を探して辺りを見回したけれど、それと思われる人たちは見当たらない。まだ5、6歳くらいだろうか、迷子になったら大変だ。そう思ってヨウの方を向くと、既に姿が見えなくなっていた。

暗い海と赤く光る提灯の群れを交互に見ながら、えりは現実と幻想の境目に立っているような感覚に襲われた。ヨウと名乗ったあの子はどこに行ったんだろうか。路地に入るなと止めてくれた男の子。そうだ、あの時も誰かが止めてくれていたら、あんなことにはならなかったのに。でもあの時は誰もいなかったのだ。あの夜あの道にはえり以外には人っ子一人歩いていなかった。えりは遠い昔のあの夜を思い出していた。

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