「彼女」と保健室の魔法

わたしは、高校生のころ、保健室登校のようなことをしていた時期がある。わたしが通っていた高校はいわゆる進学校で、毎日がとにかく忙しかった。文武両道を校風に掲げ、勉強も、部活動も、スポーツも、学校行事だって、とにかくなんにだって全力をつくすことが是とされた。
なにかきっかけがあったわけではないのだが、そのときのわたしはとにかくその毎日のめまぐるしさに精神が疲弊し切っていて、毎日学校に通うことが苦痛だった。生活リズムや家庭環境のおかげで、学校に「行く」ということはできていたのだが、狭い教室で人に囲まれ、じっと座って授業に集中する、という行為が苦手で、授業中何度も過呼吸を起こして保健室に運ばれた。そんな日々が続くとさらに居心地は悪くなるもので、いつしかわたしは、毎日1時間は保健室で過ごすようになっていた。

保健室は、不思議な場所だ。
前述のとおりとにかく忙しい学校だったので、教師・生徒かかわらずストレスから起こる病気になるひとがやけに多く、保健室はそんな生徒たちの、ときに教師の、お悩み相談室と化していた。わたしのように、毎日授業に出れずに保健室に通う子も多かったので、クラスも部活動も違う、なんの接点もない子と、保健室で友情を育むこともあった。

保健室登校、というと、たとえばいじめられていたり、クラスに上手く馴染めなかったり、というケースを思い浮かべることが多いのではないだろうか。わたしたちの学校では、そうではなかった。むしろ、クラスの人気者ほどだれにもいえないストレスを抱えて、保健室に休みに来るのだ。わたしはそうして、同じクラスのいわゆる「ヒエラルキー頂点女子」の悩みを聞いた。彼女の友人たちのだれも知らない彼女の弱い部分を、保健室の先生と、保健室に通うわたしたちだけが知っていた。

不思議な関係だったと思う。彼女とわたしは、クラスの中で、それほど仲良くすることはなかった。わたしは決してクラスで存在感のあるほうではなかったし、彼女と仲がいい友人たちとは喋ったこともなかったりしたのだが、それでもクラスでわたしがなにかいうとき、彼女になにか話しかけたとき、彼女はわたしの話を真摯に聞いてくれた。なんだか秘密の友達みたいだった。

わたしは、ストレートにいうと、いわゆる陰キャだった。小説を書くのが趣味で、物語と空想が好きで、教室からも逃げていたから、友達はいたけど、深い関係になることはなかった。高校時代の友人たちとは、TwitterやInstagramは繋がっているけれど、卒業してから一度も会ったことがない。思い返せば、わたしは高校時代も友人と休日に遊んだ経験が片手で数えられるほどしかなかった。
それでも、いいや、と思えるのは「彼女」のおかげだと思う。わたしは人付き合いは苦手だったけれど、それでも、人と人は思いもよらないひょんなことから、心を通わせることができる。

彼女と出会って、別れて、ふと過去を想起してみるのだ。
彼女だけではない。わたしは、わたしのさほど仲良くない子と、ふとした共通点を見つけてささやかな交流をするのは得意だった。わたしが普段仲良くしている友人たちに、「〇〇ちゃんとどこで仲良くなったの?」といわれるほどに、わたしはわたしの所属するグループや環境にとらわれず人と交流することが得意だった。

友達が多いことも、唯一無二の親友がいることも、きっと人間の性格やこれまでの人生をはかるひとつの指針なのだろう。彼女たちは、ある視点では、友達とよべる代物ではないのかもしれない。休日に遊んだわけでもないし、LINEをしていたわけでもない。けれど、わたしにとってはそれはたしかに偉大なる青春の1ページで、ずっとずっと大切にしていきたい思い出だ。

彼女にとっては、わたしとの交流はきっと大した思い出ではなかっただろう。それでも、わたしが彼女に出会って、なにかが変わったのは確かだった。あの夏、わたしは保健室にいることを許された気がしたし、自分の心とまっすぐに向き合うきっかけもきっと、彼女だった。

友達の少ないわたしと、人気者の「彼女」。
住んでいる世界は違っているようで、ちょっと覗いてみれば実は、とても似ている。
わたしの高校時代の「保健室登校」という、ちょっぴり屈辱的な記憶は、彼女がいたから、「そんなこともあったなぁ」といま、思い出として語れるのだ。

文字が好きで多趣味な現役女子大生が好きなものや感じたことについて書き綴ります。あと主に少女を題材に短編小説も書きます。