「ルールはルール」は本当か?

1.はじめに

最近、SNS上で頻繁に「ルールはルールだ」という論で炎上している例を目にします。美術館で「ルール」に反して模写をしていた、将棋のゲームでマスク着用の「ルール」を守らなかった、テーマパークで「ルール」に反するコスプレをしていた、、、

こういう事例では、「ルールに違反したのだから、何も言うな」、「ルールを知らない方が悪い」といった論調で、苛烈なバッシングの対象になっているパターンが多いように思います。

たしかに、既存のルールに違反した場合、何らかの批判や処分等を受けることはあり得ます。しかし、「ルールはルール」だから、という簡単な議論で片づけてよいものでしょうか。

2.「ルール」とは

そもそも、こうした文脈で言われる「ルール」とは、「人が守らなければいけない規範」を指していると思われます。しかし、ルールを守らなければいけない根拠は何でしょうか。

まず、我々法律家がよく扱う法分野の例としては、憲法や法律があります。これに加えて、法律そのものではないけれども、内閣が定める法律の施行令、省庁が定める施行規則というものが存在します。さらに、各業界が定める自主的なガイドラインや、特に定められてはいないけれども共通の前提となっている商慣習や慣例、モラルもあります。これらに定められたルールは、「どの程度守るべきか」、「誰が守るべきか」といった事柄が一つひとつ違うのです。例えば、「殺人をしてはいけない(刑法の殺人罪)」というのは、ほとんどの人が納得し、絶対に守るべきとされるルールだと思いますが、一方で民法の細かいルールについては、当事者間の約束≒契約で変えることができるものもあるのです(専門用語で「任意規定」といったりします)。

私人間の約束ということであれば、契約、利用規約、口約束、慣習、暗黙の了解、、、といったものが挙げられます。これらもたしかに「ルール」の一種ではありますが、ときに(法令に反する場合など)無効となることもありますし、慣習などは裁判では「ルール」として認められないものもあります。

さらに、校則や、ゲームなどの規則もしばしば「ルール」として引用されます。しかし、これらは千差万別で、普遍的な「ルール」もあれば、「ローカルルール」に留まるものもあります。

みなさんは、本当にご自身に関係する「ルール」全てを把握されていますでしょうか。法律家の私ですら、先日買った製品やサービスの利用規約を読み込むことはしていません。社会生活を営む上で、自分が拘束されるルール全てを把握することは、そもそも不可能に近いと言ってよいと思います。

3.守るべき「ルール」?

上記でも述べましたが、「ルール」の強度には、とても大きな差があります。

殺人が絶対に許されない、厳重な刑罰が科せられているのに対して、軽微な交通規則違反であれば、反則金を支払って終わるものもあります。モラル違反であれば、そもそも罪に問われることもありません。

何がこれらを基礎づけているかといえば、ルールの趣旨、目的、効果です。殺人がまかり通る世の中になれば、明日の我が身も危ういということになり、およそ社会が成り立たなくなるでしょう。一方で、モラル違反だ、という程度であれば、社会が成り立たなくなるとまではいえず、単にその違反した人を注意すればよいだけかもしれません。

こんな例があります。

昔、日本には「尊属殺人罪」という犯罪がありました。これは、要するに、自分の「父や母などを大事にしなければならない」という趣旨・目的で、尊属(父、母、祖父母など)を殺した場合は、通常の殺人罪より更に重く、死刑又は無期懲役しか認めないという規定でした。

なるほど、「父や母を大事にしなければならない」という目的には一定の合理性があるともいえます。しかし、それは社会の変化の中で、全ての国民に適用されるべきなのでしょうか。

問題になったのは、可哀想な女性でした。Wikipediaの記載を引用します。

”被告人の女性A(当時29歳)は、14歳の時から実父B(当時53歳)によって性的虐待を継続的に受けていた[5][6]。近親相姦を強要されて父娘の間で5人の子供を出産し、夫婦同然の生活を強いられていた。逃げ出せば暴力によって連れ戻され、やがて逃げることも諦めるようになった。また、自分が逃げることで同居していた妹が同じ目に遭う恐れがあったため、逃亡がためらわれた。

そうした中、女性Aにも職場で相思相愛の相手が現れ、正常な結婚をする機会が巡ってきた。その男性と結婚したい旨を実父Bに打ち明けたところ、実父Bは激怒し、女性Aを自宅に監禁した。その間にも実父Bは女性Aに性交を強要した上、罵倒するなどした。

監禁10日目の1968年10月5日、実父Bはもし家を出るなら女性Aや子供らを殺害すると叫びながら女性Aに襲いかかった。女性Aは、これまでの苦悩・実父との関係を断ち切り、この窮地を脱して世間並みの結婚をする自由を得るためには、もはや実父Bを殺害するほか術はないと考えた。そしてとっさに枕元にあった腰紐を取り、実父Bを絞殺するにいたった。”

どうでしょう。このような事例に対しても、「ルール」は維持すべきでしょうか。Aはたしかに勢い余って実父Bを殺してしまいましたが、本当に死刑又は無期懲役(現在は、ほぼ30年以上の懲役です)しか許されないような極悪人でしょうか。私はそうは思いません。実際、この裁判でも「ルール」の方がおかしい、憲法違反であるとされ、「ルール」の改正に繋がりました。


4.ソクラテスは「ルールを守ることの大切さ」を伝えたかったのか?

「ルールはルールだ」という論でよく引用されるのはソクラテスの「悪法もまた法なり」という格言です。ただ、私は、これを「ルールを守るべきだ」という意味で解釈することには違和感を覚えます。こちらも、ソクラテスの哲学をこのNoteにまとめることはできませんので、Wikipediaの関連部分を引用させていただきます。

”ソクラテスは自身の弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げたり自身の行為を謝罪することを決してせず、追放の手も拒否し、結果的に死刑(毒殺刑)を言い渡される。票決は2回行われ、1回目は比較的小差で有罪。刑量の申し出では常識に反する態度がかえって陪審員らの反感を招き大多数で死刑が可決された。

神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否した。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正を行なうよりも、死と共に殉ずる道を選んだとされる。

紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わしてドクニンジンの杯をあおり、従容として死に臨んだ。”

私の勝手な解釈で恐縮ですが、ソクラテスは「悪法も法なのだから守るべきだ」ということよりも、むしろ、自分が牢から逃げ出すことを期待している人たちに対して、「いかに生きていかに死ぬか」という自身の哲学を伝えるために死を選んだように思います。いずれにせよ、この大昔の事例一つをとって、「ルールはルールだ」という論の根拠としてしまうことには躊躇を覚えます。


5.まとめ

以上のとおり、ルールには色々なものがあります。その中には、他のルールと矛盾したり、合理性を欠いていたり、あるいは社会の変化に伴って時代遅れになっていたりするものもあります。そうしたものを十把一絡げに「ルールはルールだから」と受容してしまうのではなく、まずそのルールの趣旨や目的は何なのか、現代社会においても十分合理性を持っているものか、考える癖をつけてほしいと思います。



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