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8月9日の小倉。

毎年この時期に想うのが、終戦直前、広島の次は長崎ではなく小倉へ原爆が投下される予定だったという事。
徴兵され、地上から敵の戦闘機を攻撃する高射砲部隊に配属されていた祖父は、8月9日当日、小倉(正確には若松の高塔山)に出動中で、曽祖父は八幡製鐵所に勤務していたらしい。

自分の命運と直接繋がる、当時の事がとても気になった。
大人になってみると、生前もっと沢山話を訊いておけば良かったと後悔頻り。

祖父によると、前日の8月8日、米軍が変てこな日本語で書いたビラを上空から小倉に撒いたそうだ。
「明日小倉に新型特殊爆弾を落とすから、一般市民は逃げるように」という様な事が書かれていたらしい。
兵役のある祖父は兎も角、一般市民なら逃げる事は出来たの?と訊ねると、当時は列車に乗って移動するにも許可が必要だったから、勝手に遠くへ行く事は出来なかったと。

小倉に投下されなかった理由は諸説あり。

以前迄よく言われていたのが、天候が「曇り」だったから。

一方、米軍の記録では、雲ではなく「Haze and Heavy Smoke(靄と濃い煙)」と記載されている。

そして、2014年の八幡製鐵所の元従業員の方の告白「コールタールで煙幕を焚いてB-29の視界を遮ろうとした」について検証したのが、2015年TV西日本TNC制作の番組「煙幕の下で 軍都の記録」。
以前CXで放送した時に見ました。
動画   https://www.dailymotion.com/video/x58i8e6
TNC  https://www.tnc.co.jp/enmaku_no_shitade/
CX     https://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/24th/15-214.html

動画で見るのが一番分かり易いけれど、この番組では「記録ではこの日の天候は晴れ。八幡製鐵所が焚いたという煙幕で付近を隠す事は出来ても、市街全体を覆うのは物理的に無理なので、その可能性は低い。それよりも前日8月8日に45万発のナパーム焼夷弾による八幡空大襲があり、その火炎煙が翌日も消えていなかったのが主な原因」という説を採っている。

当日、B-29ボックス・カー号は、目標である小倉陸軍造兵廠を「完全目視」した状態での、プルトニウム爆弾ファット・マンの投下を命じられていたものの、小倉上空を45分間3回旋回しても目視出来なかった。
長時間飛行による燃料不足や、仮にこの新型特殊爆弾原爆をテアニン基地に持ち帰ったら、着陸してどんな不具合が生じるかの懸念(基地での爆発)、日本軍の高射砲の砲弾が増え(祖父ここ)、迎撃で零戦や五式戦も向かって来た、等の様々な理由で、小倉への投下を諦めざるを得ず、長崎に向かったらしい。

実は8月9日原爆投下の情報は米軍内部でも機密事項だったので、それを通達されなかった通常爆撃部隊は、予定通り前日8月8日に八幡をナパーム焼夷弾で爆撃し、その火災煙が翌日も消えず、苦しくもそれが原爆投下を妨害して、結果として小倉は免れたようなのだ。

その説を知らなかった八幡製鐡所の元従業員の方は、終戦後に分かって来る長崎の状況を見ては、自分達のした事のせいで、長崎の惨状を引き起こしたのではないかと、人生の殆どを自責の念に駆られ続けて過ごしたらしい…。

当たり前だけれど、この元従業員の方に責任は無い。
小倉陸軍造兵廠、そして軍需工場である八幡製鐵所のあるこの地区は、西日本最大の軍都だった為、米軍に狙われ、前年から既に2度爆撃を受けていて、8月8日で3回目。
前日のビラを見て、工場を守るべく出来る限りの事を懸命にされただけで、その役目は、同じ場所で働いていた曽祖父に振られる可能性もあったかも知れない。
心中を想像すると、もっと早くにこの事を知らせてあげたかったと思う。

小倉にある勝山公園には、長崎市から贈られた「平和の鐘」のレプリカとモニュメントがあり、毎年8月9日には市民による慰霊祭が行われているそうです。
https://www.kitakyushu-museum.jp/resources/2198

長文御容赦下さい🍀。