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ただ、いる、だけのことの難しさ

ただ「いる」ことの難しさについて考えている。

「する」ことがなにもない状態で「いる」ことは難しい。その難しさと向き合って、「いる」ことのつらさを語っているのが、この本だ。

「ただ、いる、だけ」。その価値を僕はうまく説明することができない。~
だけど、僕はその価値を知っている。「ただ、いる、だけ」の価値とそれを支えるケアの価値を知っている。僕は実際にそこにいたからだ。その風景を目撃し、その風景をたしかに生きたからだ。
だから、僕はこの本を書いている。そのケアの風景を描いている。
(p.337)

著者は、沖縄の精神科クリニックのデイケアで、臨床心理士として4年間勤務する。その4年のなかで、「いる」ことの価値と、その価値が社会的には認められないこと、そして実際に「いる」だけのことがつらいこと、つらくさせている社会のこと、について考え、それを本にしている。

著者は、大学で心理学を学び博士号をとって、「セラピー」を学んでいる。「セラピー」は、治癒の具体的な手法のひとつであって、その人の傷と向き合いその傷を治していく試みだ。歯医者さんが虫歯を治すように、痛みに触れ、その痛みを取り除く。そうして、患者さんは傷を治してまた生きていく。
一方、「ケア」は傷つけないことである。たくさんの傷を負って弱っている人、依存しなければ生きられない人に対し、そのニーズを満たしていく。「ケア」をすることによって、その人は「いる」ことができる。日常を取り戻していく。
「ケア」は依存を原理とし、「セラピー」は自立を原理とする。ざっくりとそんなふうにわけられるけれど、その領域は曖昧で、ケアとセラピーは相反するものでもなくて、同時に行われることで、それぞれの強みを生かすこともできる。著者はそれを「成分」と表現している。糖分たっぷりのスイカに塩をかけたらおいしいよね、というふうに。

そうすると、「ケア」よりも「セラピー」のほうが、社会的な価値があるのではないか、と考えてしまう。依存的な関係性を維持するためのケアよりも、傷と向き合い自立を促すセラピーのほうがコスパがいい。実際に、著者も、ケアではなくセラピーをしたいのだ、より高度で専門的な営みをしたいのだと意気込んで、精神科クリニックに飛び込む。しかし、実際にそこで行われていた大半の営みは「いる」ことを許してくれる「ケア」の営みそのものだった。
この本のストーリーの大半は、この「ケア」に焦点が当てられて描かれる。

だけど、それでも。それでいいのだろうか。そんな声に、著者(と読書)はたびたび立ち止まる。

まずケア労働の価値は低い、とされてしまう。それはクリニックに限らない。ふつうの主婦や主夫をしている人の日々の営みも、価値の低いものと思われている。保育士や介護士の仕事も同様に、その労働単価は低い。「ただ、いる、だけ」の居場所を作る仕事は、いまの社会においてはコスパが悪いのだ。

そして、このことの闇は、もう少し深い。「ただ、いる、だけ」の人がいることに、価値がある。それ自体、素晴らしいことなのに、それにケアする側が依存し過ぎると、「自立」させようとしなくなる。ずっとそこに人がいることが価値になる、お金が入ってくる。そんな状況だから、安心できるはずの「居場所」に、なにかブラックなものが流れてくる。ケアすること、ただいることに価値を与えることは、いまの社会の仕組みとうまくかみ合わない。そんな難しさがある。

「ただ、いる、だけ」のこと、なんもしないこと、に対する社会の風で冷たい。

でも、その価値について語ること、居場所を作っている人、必死にそれを探し求めて生きている人の営みはもっと語られるべきだ。なにもせずに「いる」こと、なんもしないことについて、もう少し掘り下げて考えてみたい。

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