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わたしは、べつに「かわいそう」じゃない

社会が多様化すると、同じ立場の人どうしでも、悩みや困りごとはなかなか共有されにくい。

わたしたちは、とっくに「ふつう」が共有できない社会にいるはずなのに、「ふつう」を求めてしまう。
個人の悩みが、社会の不満と共通していると、その悩みは共感されやすい。
みんなが貧しければ、もっと給料を上げろ、と集団で声を上げやすい。女性が今よりずっと社会に出られなかった頃、彼女たちは団結してその不満はずっと大きな声にしていた。

今は。今はどうだろう。まだまだ男女の差別はある、でもそれを感じない人もいる。それを感じない人は社会への不満を述べる人を「努力が足りないんじゃない?」と思うかもしれない。

あなたの「ふつう」はわたしの「ふつう」じゃない。わたしの「かわいそう」も、あなたには理解されない。だから、声を上げるとそれは「わがまま」になる。そして、わがままはだいたい、嫌われる。みんな一緒でみんないい、日本においては特に。

「わがまま」ってそんなに悪いことだろうか。

わがままは、もっと気楽にやっていい。疎かにされてきた自分たち、よくわからないルール、無かったことにされてきた差別やいじめやハラスメント。小さな声でもつぶやく。言葉にして伝える。もしかしたら変わるかもしれない世界に、期待する。でも、それで世界が変わらなくてもかまわない。
アイドルに会いにいくファンは、アイドルと付き合えるわけでもないのに、すごい熱量をもって忙しく駆け回る。アイドルが振り向いてくれなくても、かまわない。このアイドルいいよね、と話せる仲間が増える。自分が少し変わる。それだけでも、とても意味がある。

わがままはときどき、大きな声になる。「保育園落ちた」という不満が世の中を変えることもある。でも、わがままに対する反発もいっぱいあったと思う。わがままを言い続けるのはたぶん辛い。批判もたびたびされるから。親や友人にアイドルに入れ込み過ぎじゃない?と忠告される。体力もお金もかかるから、だんだん辛くなったらやめてもいい。

社会運動を「わがまま」と捉えることは一見すると否定的なイメージを与えてしまう。でも、「社会運動」のほうがそもそもずっと仰々しくて、怪しくて、怖いイメージがある。

それを「わがまま」と捉えてみる、そしてもっと「わがまま」を許す、楽にできるようにする。

多様な人が生きる時代、誰かの「わがまま」は共感されにくい。わたしは大丈夫、あなただけの問題じゃないの?と。でも、相手の「わがまま」を知ることで、理解が深まることもきっとある。

「わがまま」を言いやすい雰囲気のある社会、それを受け入れてみんなで考えてくれる社会は、とても優しくて素敵だ。




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