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村社会

「淡路島は日本の縮図である。けだし、名言である。」

兵庫県の瀬戸内海側に位置する、淡路島のある教育者が遺した言葉だ。初めてこの言葉と出会ったとき、離島ならではの独立した産業構造を言及したものだと思っていた。明石海峡大橋が開通する以前は離島であり、本州との交通手段は船のみであった。にもかかわらず、この島はかつて三洋電機やカネボウ紡績、ワコールなど国内トップレベルの製造業が拠点を置いていた。当時の島の人口は15万人を超える。今思えば、物流から物理的に切り離された環境でありながら、ひとつの街として成り立つサイズでもある稀有な場所だった。離島という状況下でもコミュニティの外側からの人の出入りが日常的に行われていた場所なのだ。

映画『スリービルボード』は、アメリカの片田舎で起きた殺人事件で娘を殺された母ミルドレッドを描いた物語だ。ミルドレッドは、町の外れにある道路脇の大きな3枚の看板に広告を出すことを決める。娘を殺した犯人を見つけられない警察へ向けて、抗議と皮肉を交えた言葉を大きく並べた文字のみの広告だ。この看板に鋭く反応した警察とミルドレッドは、対立を大きく深めてしまう。とにかく犯人を探したいミルドレッドの行動は、片田舎の町のバランスを少しずつ崩していき……。

この映画の舞台はミズーリ州。アメリカの地政に詳しいわけではないが、南部へも西部へも玄関口とされる場所を舞台とした意図を、見る側が察していないと解釈しづらいのかもしれない。田舎でありながら都市部から人々の流入がある場所には、目に見えない排他的な空気がある。もちろんそれをどう感じるかは人によって異なるが、内側の人々の慣れと許容でその尺度は大きく変わるのかもしれない。

本作はアメリカの社会構造下に生きる、さまざまな弱い立場の人たちが登場する。人種差別、身体的ハンディによる差別、DV、離婚によるシングルマザー、闘病生活者、死別によるシングルマザー、格差社会の温床、出自による明確な区別(町の人か否か)、職業による権威。今のアメリカに蔓延っている社会問題が、ミズーリ州の小さな町に色濃く凝縮されている。そこを舞台に「3枚の看板」というメディアを利用して権力とマジョリティに抗う個人を描くのは、いかにもアメリカ映画らしい切り口だ。

村社会には明確なヒエラルキーがあり、強固なバランスの下で成り立っている。排他的な色合いが強いコミュニティの中で、ミルドレッドの行動へ最初に手を差し伸べたのは町の外側からやってきたと思われる広告会社の青年だ。彼に対する町の人たちの態度には、内側へのそれと異なる一線が引かれている。今作は、昔ながらのハリウッドムービーのような勧善懲悪のストーリーではない。登場する人たちが各々自らの価値観で動き、その行動は「あぁ、このタイプの人がこの状況だとこう動くかもね」と思えてしまう振る舞いになっている。つまり、作品を通じて全面的にヒール役を担う者はおらず、コミュニティの秩序を守る(もしくは壊す)ために、自分のエゴをむき出しにしてしまった人たちが描かれているのだ。

町の人たちは村社会のルールに則り、ミルドレッドの抵抗に対して敏感に反応しただけなのである。その反応の末路を本作がどう描いたのか。必見のクライマックスはぜひ劇場でご覧いただきたい。

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