落ち葉を捨てた

 落ち葉を捨てた。
 ピカソが朝食の焼き魚の骨からインスピレーションを得、粘土に押し当てて、骨の型を取って彫刻作品を作ったというエピソードが妙に印象深くて、ずっと記憶にこびりついたままで、今も時々思い出す。誰も見向きもしない、身近にある物でも、それをどう使うかでアートが生まれるとかうんぬんかんぬん偉い人は言うのだけれど、きっと誰もが、そんなんピカソだからですやん、僕らがやってもゴミが増えるだけですやん、ほほほほ、と反駁する。

 もしかしたら世界の何処かに、僕の芸術センスを正しく捉えて絶賛してくれる、頭のおかしい美術品蒐集家がいて、僕の作品を総額50億円で買い占めてくれるかもしれないから、僕は時々絵を描いています。今の所、頭のおかしい美術品蒐集家は実家の呼び鈴を押してくれていません。
 そんなワンチャンあるっしょの人生なので、前述したピカソの自由な発想に感化された僕は、道の脇に落ちていた落ち葉を拾って持って帰ってきたのです。だって、すごくいい形の落ち葉だったんですよ、わかるでしょう、時々、自分の感性や美的感覚がびくびく反応してしまうような、自然世界の中の造形があるのです。それだったのです。その落ち葉十数枚は。

 自分の感性を信じて落ち葉を持って帰ってきたものの、落ち葉が突然、スタニングな名画に変わるわけもなく、プリミティヴな魅力を持った彫刻になるわけもなく、「これ色塗って画用紙に貼ったりしたらきれいになるんとちゃうやろか」「スタンプみたいにしてみよか」「切って並べたらええんとちゃうか」などとうっすら撫でる程度の芸術思考を行った後、虚しくなってやめた。ここでやめてしまうから、僕はピカソになれないのだ。
 落ち葉を入れていたスーパーの袋ごと、ゴミ箱に押し込んだ。今頃、二酸化炭素となり、植物を生かしていることだろう。僕が芸術作品を作るよりも地球のために役立っていることを確信している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?